預言行動


               

 

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』(マタイ七章二十二節)

 

主イエス様の再臨までの間に大勢のニセ預言者が世に現れる事が書かれています。彼らは預言活動のみならず、悪霊追放、奇蹟も「たくさん行なった」と自称する者たちです。しかしイエス様の御名を利用して霊の世界に立ち入って、何らかの不思議を現しても聖霊様による新生体験がなければ神様とは無縁な奉仕者です。

ユダヤ人の魔よけ祈祷師、スケワの七人息子たちは、ためしに悪霊につかれている者に「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」

と言ってみたところ悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもおまえたちは何者だ。」と言って逆に襲い掛かり彼らをひどく追い散らした記録があります。

イエス様の御名を使ったニセ預言者とは、今日、教会の中に忍び込む占いの悪霊による活動です。

使徒ヨハネは警告しました。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(第一ヨハネ 四章一節)

ここにも「たくさん」と記されていますが、特に聖霊派の教会は基本的に異言も預言も認めるため、いよいよ吟味が大切です。黙示録十九章十節では

「神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

と記されているため、イエス様を伝道するクリスチャンは誰でも世に対する小さな預言者的存在です。しかし聖霊様による直接の語りかけを専属的に語る預言の賜物を持つ奉仕者もいます。

旧約時代は預言を文章に残さないで預言活動したエリヤ、エリシャ、逆に預言を文章に残したヨエル、イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ダニエル等が専属的な預言者ですが、預言の現れも口頭で語るモーセのような預言者もあれば、エゼキエルのような幻で示される預言者もあり、エレミヤが公認した夢で示される預言者もいます。

「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――」

(エレミヤ二十三章二十八節)

サムエルがサウルに今から出会うと預言した預言者の一団は賛美の行進と共に預言活動を展開していましたが、(サム第一 十章五節)

エリシャも賛美の只中で預言がよく下ることを知り、実践していました。

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』(列王第二 三章十五節〜十六節)

 

預言の賜物を持つ奉仕者はもし御心を確信したならば、誰が何と言っても大胆に勇気を持って語らなければならず、もし恐れ退くならば正しい預言者さえ惨めに敗北してしまいます。エレミヤの時代、イスラエルのバビロン捕囚を預言したエレミヤは迫害され、「死刑に当たる」とまで言われて、窮地に立たされたとき、変わらず大胆に確信を持って語り続け、その場を退かず立ち続けたため、首長たちとすべての民は、祭司やニセ預言者たちと協議した上でエレミヤには手を下さないことにしましたが、同じ頃、エレミヤと全く同じ内容の預言をしていたウリヤは王の反感をかって命が狙われたのを聞くや否や恐れてエジプトに逃げてしまいました。そのためその後のウリヤ預言者の運命はエレミヤとは分かれました。

「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。」(エレミヤ二十六章二十三〜二十四節)

小犬でも私たちが恐れて逃げ出したら、調子にのって「キャンキャン」ほえながら追いかけてきますが、ぐっと目をにらみつけたら小犬のほうが逃げ出します。預言者は何者からも退かない勇気が必要です。

「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じいのち保つ者です。」(ヘブル十章三十九節)

 

聖書預言には言葉なき預言すなわち、無言の環境自体が何かを語りかけている預言が多数あります。

例えばイエス様がベツレヘム(パンの家の意味)で宿屋なく、家畜小屋でお生まれになった時、家畜の食卓の飼葉おけに寝かされましたが、イエス様は世には受け入れられないけれど、確かに謙遜な「命のパン」であられ、石製の棺おけのような形をした飼葉おけの中で、包んで行動を制約した産着の布とは、もともと死者を一時安置した家畜小屋に備えてあった死者を包む為の死の衣であり、まさにまぶねに眠る清いみどり子イエス様の御姿は、将来、罪なき清いイエス様が十字架で釘打ちという死の衣に包まれて、行動が制約されたうえで死の眠りにつかれることを預言していました。

また、ユダにサタンがはいって裏切り目的で最後に外出したとき、環境もユダの霊的暗黒同様、すでに暗い夜でした。イエス様の再三の警告ともなう預言を拒み続けたユダにとって、もはや生きた知性の言葉ではない無言の夜の暗闇だけが心に訴えかける哀れみの最終預言者でした。

「おいユダ! なぜイエス様を離れて、つまずく闇夜に誘われて。お前は一体どこに行くのだ…」

ルカ二章のシメオンや女預言者アンナのように幼子イエス様を腕に抱いたうえで、正確に生きた知性の言葉で未来を預言した奉仕者もいますが、珍しいケースで本人はそうとは知らずして預言している大祭司カヤパのような奉仕者もいます。

「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ十一章四十九節〜五十二節)

それゆえよく注意して下さい。あるいは小さな子供が、あるいは不信者の誰かが深い意味を知らずして神様の御心を預言しているケースも意外と多いです。

ある姉妹は預言と思いながら占いの悪霊をかぶっていたのですが、不信者の夫から「お前のキリスト教信仰は何か間違えている。」と言われて後に気付いたといいます。中には不信者の知り合いから強く勧められて信仰に入った人もいます。その際、彼ら勧める者たちが自らは知らずして預言者の使命を果たしていたといえるでしょう。

私の家内は日本宣教に召された当初、宣教師になることを確信させるかのように各種の小さな預言者たちが本人はそれとは知らずして語りかけたそうです。ある姉妹は家内の韓国における教会の聖徒でしたが、ある日、夢を見たと言ってカウンセリングに来たそうです。

「先生!先生が日本人と結婚してこの教会を辞任して宣教に行ってしまう夢を見ました。まさかそんなことはないでしょうね!」

また、極めつけのカヤパタイプの預言者がいました。実は家内がその時期、突如顔にしみのようなものが少しできたので気にして、たまたま伺った病院で担当してくださったお医者さんです。この方は家内の状況を知らずしてこう語ったそうです。

「あなたのしみは女性ホルモンのバランスが崩れたことによって現れました。これを直すには早く結婚しなさい!」

家内にとってまさにその言葉はこれから来日、そして結婚する私との関係を聖霊様が推奨される預言でもありました。もちろん二人とも聖書から、御心を確信できる御言葉も受け、夢や幻でも繰り返し示されて結婚に至りましたが、十年前のことですね。あなたも預言者になりたいですか?以下に紹介する聖書中の献身者たちと同じレベルの従順さえあれば、あなたもなれます。主の預言者に。

本当の預言者は時に一般人が理解できない行動をとる事があります。

神様はホセアに裏切る背信のイスラエル人をなお愛し続けている神様の愛の心を実際に体験するよう裏切る不貞の遊女ゴメルを妻として迎えるよう命じられました。やがて二人の間にニ男一女をもうけましたが、ゴメルは家出し、娼婦となって売られました。しかし神様はこの時までもこの女を買い取って家庭を築くよう命じられました。ホセアにとって犠牲の大きい、まさに人生すべてをかけた献身的預言行動です。(ホセア三章一節)

 

エレミヤはやがてバビロン捕囚になるイスラエル人にその預言を実際に示す使命を受け、なわとかせとを作り、エレミヤ自信の首につけて預言するよう導かれました。一見、狂った預言者のようでしたが、悔い改めを願う神様の激しい愛の現れでした。(エレミヤ二十七章二節)

 

エゼキエルにおいてはそれ以上に一般人が理解できない預言的行動に導かれました。それらの行動は私にはあまりにも深くて表現も出来ません。エゼキエル四〜六章と十二章をお読み下さい。

四章では三百九十日、左わきを下にして横たわり、その後は四十日間、右わきを下にして横たわる行動。

五章では鋭い剣で頭と、ひげをそり、その毛をはかりに量る…。

六章では手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ。』と叫ぶ預言行動。

十二章では、エゼキエルの荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、引っ越すことによりバビロン捕囚を示す預言行動。このように神様はエゼキエルを導かれましたが、これらすべてはおのおの意味を持つ預言行動でしたが、ただ聞くだけではもはや心に留めないかたくななイスラエル人に聞くことプラス明確な視覚を通じて神様は御心を示し、エゼキエルの行動自体がイスラエルの家のためにしるしとされたのです。

百聞は一見にしかず」とことわざにありますが、このように通常の人には理解できない預言行動が視覚ゆえ、よりいっそうの感銘を与え、深く考えさせ、時におぞましく、痛く心に刻まれる働きかけとして、エゼキエル以降、後の時代に究極的にもう一度だけ現れました。それがイエス・キリストの十字架の傷ついた御姿です!

多く語るより、ただ見上げようイエス様の十字架を!これこそ神様から全人類へ御言葉プラス視覚を通じてうったえかける究極的最後の預言メッセージそのものです!「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と!