JESUS
 
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白く皮をはいだ枝(ヤコブの神様)
 

創世記三十章三十一から四十三節

創世記30:31 彼は言った。「何をあなたにあげようか。」ヤコブは言った。「何も下さるには及びません。もし次のことを私にしてくださるなら、私は再びあなたの羊の群れを飼って、守りましょう。私はきょう、あなたの群れをみな見回りましょう。その中から、ぶち毛とまだら毛のもの全部、羊の中では黒毛のもの全部、やぎの中ではまだら毛とぶち毛のものを、取り出してください。そしてそれらを私の報酬としてください。後になってあなたが、私の報酬を見に来られたとき、私の正しさがあなたに証明されますように。やぎの中に、ぶち毛やまだら毛でないものや、羊の中で、黒毛でないものがあれば、それはみな、私が盗んだものとなるのです。」するとラバンは言った。「そうか。あなたの言うとおりになればいいな。」
ラバンはその日、しま毛とまだら毛のある雄やぎと、ぶち毛とまだら毛の雌やぎ、いずれも身に白いところのあるもの、それに、羊の真黒のものを取り出して、自分の息子たちの手に渡した。
そして、自分とヤコブとの間に三日の道のりの距離をおいた。ヤコブはラバンの残りの群れを飼っていた。 ヤコブは、ポプラや、アーモンドや、すずかけの木の若枝を取り、それの白い筋の皮をはいで、その若枝の白いところをむき出しにし、 その皮をはいだ枝を、群れが水を飲みに来る水ため、すなわち水ぶねの中に、群れに差し向かいに置いた。それで群れは水を飲みに来るときに、さかりがついた。こうして、群れは枝の前でさかりがついて、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものを産んだ。 ヤコブは羊を分けておき、その群れを、ラバンの群れのしま毛のものと、真黒いものとに向けておいた。こうして彼は自分自身のために、自分だけの群れをつくって、ラバンの群れといっしょにしなかった。そのうえ、強いものの群れがさかりがついたときには、いつもヤコブは群れの目の前に向けて、枝を水ぶねの中に置き、枝のところでつがわせた。 しかし、群れが弱いときにはそれを置かなかった。こうして弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった。それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。 」


 ヤコブは行ないにおいては、ずるい人間的な知恵による行動の多い人で、そのため多くの苦しみを体験しましたが、その心底には父と兄をだましてまでも、それ以上に長子の権利を尊び、固執したような将来イエス・キリストの系図につながる霊的な祝福を第一と重んじる信仰がありました。そのやり方は良くありませんでしたが、長子の権を軽んじた兄エサウとは反対に霊的なものを重んじる熱意は認めることができます。その熱心はヤボクの渡しでも神様の御使いに対して泣いて祝福を願ったほどでした。(ホセア一二・四)。このように切に求めて祝福を受けたヤコブから悪は学ばないで繁栄の法則を学びます。ヤコブはラバンからの報酬として、一般的に羊は白、やぎは黒いのが生まれてくるはずのこの地方で、ごくまれに生まれてくる例外的な黒い羊と白いやぎや混色のものはみな、ヤコブのものとして受けられるというヤコブにとって一見不利な約束を立てました。しかしヤコブは自分の群れだけを効果的に増やす繁栄の法則をよく知っていたのです。それは黒いやぎが交尾中にはポプラやアーモンドやすずかけの木の若枝の白い筋の皮をはいだ白いものを目の前に置き、黒いやぎに白を教え込むとその後に黒いやぎは見せられた通りの白混じりの子やぎを出産したのです。これはヤコブの取り分です。更に白い羊のためには黒いやぎの群れを正面に置いて黒を教え込み、白いやぎのためには黒いやぎの群れを正面において黒を教え込むという方法をとると白いやぎが例外的な黒混じりの羊の子を出産したのです。これもヤコブの取り分です。また、弱い群れの時には枝を置かず白の羊か黒のやぎのまま弱いものを出産したのです。それはラバンの取り分です。こうして弱いものは全てラバンのもの、強いものは全てヤコブのものとして出産し、ヤコブは大金持ちになったのです。なんと動物が目の前に見た通りの色を受けて同じものを出産していったというのです。何を今、見て身ごもるかが重要なのです。人間も同じく日々、私たちの正面に見つめているもの、それが種としての影響力を与え、やがてその通りのものを産み出すこととなるのです。私たちの身ごもりは信仰を働かせて祈ることです。目の前に置かれた白い枝や黒いやぎのように、祈りは明確に見定めた具体的目標を見据えて求めることが大切です。私たちが信仰の目で見つめるべき白く皮をはいだ若枝とは、イエス様の荒削りの十字架の木です。そこにあるイエス様の血潮を見る時、主とともに古い自分は死に、祝福された新しい自画像通りの自分の姿を身ごもることができるのです。誰でも十字架を通して意識が変化し、新しい人に生まれ変われるのです。イエス様の十字架を見つめて罪赦され神様の子となった自分、聖霊様に満たされ聖くなった自分、呪いから開放され祝福された自分、病が癒されて健康になった自分を思い描きましょう。その通りになります。今、貧しい人は豊かになった幻を描き、他の人のためにとりなし祈る時も、彼らが救われ、問題が解決して喜んでいる姿を信仰の目で思い描いて祈りましょう。心に描かれた幻が現実の世界に生み出されるのです。白い羊の前に黒いやぎ、黒いやぎの前に白い枝を置いたように今、私たちの否定的、絶望的な現状を見ないで全く正反対の色を持つ、肯定的な栄えに満ちた幻を信仰の目で見つめて身ごもりましょう。何であれ祈りのうちに心に描かれた幻が環境に生み出されます。

 私は以前、北海道の道南地方でトラクトを民家のポストに入れ歩いていました。家がわずかしかない山奥です。そのうち一つの看板を発見しました。「くま出没注意!。」北海道のいなかの山中にありがちな標識ですが、私の心を強くとらえました。でも看板が立てられるほど人の手が入っている場所にはもう熊はいないだろうと思いながら、いつのまにかトラクト配りから熊さがしに行動と祈りが変わり、川が流れる沢の方に下って見ました。やっぱりいないなと思いながら伝道最中だったため祈りつつ、ヒグマのことばかり心の幻に満たして深く黙想して考えていると、ふと私の真横2メートル位の所にあった水たまりに人間なら中学生位の真っ黒なヒグマが水を飲んでいるではありませんか。「あっ!くまだ。」心臓がドキンと高鳴りながらお互いびっくりして目と目が合うとヒグマは私に勝てないと悟り、古い冗談で「あっ くまのように」一目散に茂みの中へ走って逃げて行きました。私の震える手には勝利の剣、御言葉いっぱいのトラクトがしっかり握られていました。ハレルヤ。

 その後、今度は断食祈祷の時、考えが誘惑されて鹿肉が食べたいという心の幻いっぱいになったことがありました。素手だけでは捕獲不可能な、あの大きな体をもつ野生の鹿をもし、捕らえることができれば、一年間は肉に不自由せず新鮮でおいしいだろう。大切な時間にあまり価値の無いものを身ごもりました。すると、断食終了後、たまたま北海道の道東地方へ礼拝のため車で集会に行くことになりましたが、帰り道に何と生きたままの鹿肉が倒れていました。前に行ったトラックに跳ねられて足を怪我していたのです。降りて近づき私の野生の鹿狩りはライフルや罠によらず、心に夢と幻を身ごもる力で捕獲成功しましたが、実際に捕らえてみると、その美しい目に心打たれ、かわいそうになって逃がしてあげました。その後ある聖徒の家に行くと、向こうからこう話されました「隣の医者がライフルで撃った鹿の肉をたくさん持って来てくれたのですが、うちはあまり食べないので…。」

 重要なことは、何であれ、今、信仰の目で見つめて心に描いた物をやがて生み出すという、この法則です。生物を捕らえるにもいろいろな方法があります。魚でも大海で釣り竿を使い、一匹ずつ釣る方法もあれば魚群探知機のレーダーと網を使って大量に捕らえる方法もあります。うずらの場合でも、荒野に出て行って狩りをする方法もあり、大風が吹いてきて寄せ集められる方法もあります。最もすぐれた信仰の目で見つめて心に身ごもる方法、これを私たちの信仰生活と人々を捕らえる教会成長に適用し、事業の繁栄と成功に適用し、優れた家庭と人間関係にも適用して、全ての成功と繁栄ある人生を心の幻に思い描きましょう。この三次元の世界には三つの力があります。一つは筋肉の力で稼ぐブルーカラーとよばれる肉体労働者であり、二つ目は知力の力で稼ぐホワイトカラーの医師や弁護士や教師のような人です。一般的に前者よりも後者の方が収入が多く社会的にも優遇されます。しかし三つ目の力も実在します。それが信仰の力なのです。この最も優れた信仰の力を解き放てば人知を超えた神様の仕事ができます。漠然とした祈りをせず、具体的な目標を持って祈りのうちに身ごもった幻こそ良かれ、悪かれ、時が来るとあなたの環境に出産され、現われて来る祝福となります。心にはいつも良いものを身ごもるべきで、身ごもることが信仰です。妊娠一ヶ月の小さい腹の人もあり、妊娠十ヶ月の大きい腹の人もあるように、信仰も小さい人と大きい人があります。しかし、たとえ小さなからし種ほどの信仰で身ごもっても、そこに命があれば、必ず後には大きく成長するものです。

 私は金曜徹夜祈祷会を導いている時、これを学びました。講壇からメッセージを語っている最中に、席に着いている聖徒たち一人一人の頭の上に突然煙の柱のような幻が見えました。始めは夜遅い時間にこうして集まっているため、寝不足で私の目が悪くなってこれが見えるのだと思いましたが、よく見ると、この煙は信仰の煙であることが分かりました。この煙は聖徒たちから出ているもので、三角形のように上に行くほど細い煙の柱であり、信仰熱心な聖徒の上にはこれが大きく高く立ち上っており、あまり熱心でない聖徒の上では小さく低い煙の柱なのです。ですから、この煙を見るだけで一目瞭然と信仰の大きさが分かるのです。私は主が人を御覧になられる時、この信仰の煙を通して、信仰をはかって祝福され、敵なる悪魔もこの煙を目安に働くものだと思いました。私がその神秘的な霊の世界を見ていると、一人の一番熱心ですが、同時に一番問題の多い試練の只中にいる聖徒のその一番高く立ち上る太い煙の柱の所に、白くて長い衣を着たイエス様が立っておられるのが見えました。平安で恐れはありませんでしたが、悟りが来ました。本当に聖書の御言葉通りイエス様の御名で私たちが集う時、そこには霊を通してイエス様ご自身が共におられるということです。更にまた、イエス様のおられた場所は聖徒たちの中でも最も問題多く、試練に苦しむ人の所であり、イエス様はその人の上に立たれ、守っておられたのです。私はそれを講壇から見つめながら、本当に主は真実で聖なる正しい御方だと学ばされ、感動しました。

 アブラハムは実の一人息子イサクを捧げた信仰の父として、ご自身の御子を私たちに贈られた父なる神様を象徴し、イサクは死を決意して従順に祭壇にあげられた神様のひとり子イエス様を象徴し、ヤコブは聖霊様を象徴しています。ヤコブが聖霊様の象徴である理由は、創世記二十八章十八節によると、天に届く一つのはしごに神様の御使いたちが上り下りし、そこで主が彼のかたわらに立っておられる夢を見せられた場所を「神の家」の意味を持つ「ベテル」と目覚めたヤコブは名付けて、今まで眠るために横にして枕に使っていた石の柱を立てて油を注ぎ、そこで什一献金を捧げる約束のともなった誓願祈祷をしたのです。そのため今日では神様の御使いたちが自由に上り下りする「神様の家」であり、主のおられる天の門であるベテルは今日の教会の象徴であり、今まで眠っていた教会という岩をさらに倒すのではなく目覚めて立て上げて強く不動なものとして油を注ぎ与え、教会に什一献金制度を定めたのは聖霊様の働きであります。さらにヤコブは夢を見ましたが今日、聖霊様の語られる原語の多くは夢と幻です。ヤコブは自ら知らずして聖霊様の象徴となるような預言的行為をしばし行なっていたのです。

そして、ヤコブの夢見た一つのはしごもまたイエス様の十字架を象徴しています。創世記二八・十三では「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。」とありますが、別訳では「主がその上に立っておられた。」ともなります。当時のはしごは十字架の木のようにスチール製ではなく木製であり、十字架の木の上にイエス様は付けられて立たれたのです。そして御使いたちは唯一ヤコブの夢見たはしごを通じて天国から地上へと自由に上り下りしていたのであって、この特別なはしごという木がなければ御使いたちとの交流が絶たれてしまうように十字架の木なくば、私たちは生まれつき御怒りを受けるべき子らとして父なる神様との交流も絶たれ、御使いも自由に上り下りして私たちの救いの業に仕えることができなかったのです。

このようにアブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様とは父なる神様・子なるイエス様・助け主なる聖霊様の象徴であり、この神様が今、あなたの神様、わたしの神様となって絶えず十字架の木を通して祝福して下さるのです。




 
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