霊を見分ける力


               

 

「イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ十六章十三〜十七節)

                        

イエス様が一体誰であるかを知ることは重大です。ペテロのように「生ける神の御子キリスト」であると信仰告白できれば天国にまで入れます。しかし単なる歴史上の聖人や宗教家、教師、預言者レベルと考えているなら危険です。

ヘロデ王はイエス様のことを自分が過去に殺したバプテスマのヨハネのよみがえりだと考えて、ひどく当惑していましたが、人は誰でも悔い改めていない罪悪があるとその領域からイエス様に対する正確なイメージが狂い、霊の見分けができなくなります。

ヘロデ王ほどひどい罪を犯していなかったペテロはイエス様を正しく評価できましたが、このことを誉められたペテロは未熟者なのですぐに有頂天になり、心にスキができました。そのためイエス様によって十字架の死と復活に関する重大なメッセージが語られた直後、心のスキに入り込んだサタンがうまくペテロの口を使ってもっともらしくしゃべりました。

「イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 (マタイ十六章二十二節)

 

事もあろうに十字架を「そんなこと!」呼ばわりして軽蔑したサタンですが、一見この発言はペテロらしい人情味ある親切な言葉にも聞こえます。だまされてはいけません。サタンは偽りの父です。人情に訴えながらその実、全人類の唯一の救済策、十字架を否定する悪い敵です。

イエス様はこの時、サタンにだまされることなく完璧に背後の霊を見分けて仰せられました。

「イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

(マタイ十六章二十三節)

人が霊の見分けなくサタンにだまされる時は、決まって神様のことを思わないで、忘れているときです。サタンは神様より目に見える人のことや世俗の事柄ばかり意識させ、真理から目をそらさせようと誘惑します。だから使徒パウロは命じました。

「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」(テモテ第二 二章八節)

霊を見分ける力は聖霊様から与えられます。どんなに熱心に走りこんでも道を間違えていたらすべての労苦が無駄になるように、だまされてサタンの側について行ったら死後に気付いた時、すべてがとき遅く、台無しです。霊を正しく見分けないといけません。

「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」

(ヨハネ第一 四章二〜三節)

使徒パウロは占いの悪霊につかれた女奴隷が連日、つきまとっては伝道を妨げるので、背後の霊を見分けて女から悪霊を追放しています。

「彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。」(使徒十六章十七〜十八節)

ここで注目は、女の語った言葉が、正しく聞こえ一見、伝道の協力者のようでもあることです。

「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」アーメン? しかしその実、この言葉は伝道を妨げる占いの悪霊から出た言葉で、見分ける特徴は悪い木は必ず悪い実を結ぶように結果として時間が経つと結実で現れます。幾日も叫び続けたという異常な熱心が結果、パウロを困り果てさせています。悪霊のすることはいつも、けものにしっぽがあるように何か異質でおかしな点が見え隠れしています。もしパウロに霊の見分けなく女を同労者に歓迎していたら、この宣教旅行は失敗に終わったことでしょう。

 

同様にユダヤ人の魔術師エルマのケースも紛らわしいです。「エルマ」は本名で意味が「魔術師」、確かに名付け親か育て親等、親から子へ呪いは下ったようです。その名の通り期待を受けて同じ霊を受けて魔術師になった「エルマ」でしたが、彼は、はなはだ迷惑な紛らわしいもう一つの芸名を持っていました。なんと「バルイエス」です。(使徒十三章六〜八節)

聖書にはバルナバとかバルテマイとか出てきますが、バルは英語で言うSON、サン、息子です。そのため芸名「バルイエス」は「イエスの息子」という意味です!あの有名人ナザレのイエスの評判にあやかり、何か実の隠し子がいたかのように、御名を利用して人々を集めては、だます魔術師の手口です。

ですから優れた肩書きや職歴、学歴などの名前にだまされてはいけません。

本質を見分けることが大切です。

もう一人、究極のあざむく者を暴露します。それはイスカリオテのユダです。彼は十二弟子の一人に数えられ会計係まで任されていましたが、その実、献金泥棒でした。イメージではユダは単純な愚か者ですが、実に意外やキレモノだったようです。まず、献金係の奉仕ですが、同じ弟子に元々会計の専門家である元、取税人マタイがいたのに、彼を差し置いての抜てき。ある程度、数学的な計算が早い人でないとできない奉仕です。また、他の十一弟子たちはイエス様がローマからユダヤ人を解放してくれる国王になってくれることを最後まで期待していました(使徒一章六節)が、ユダは一人違います。

イエス様は天国を伝える宗教家、地上で王にはならず、王国も築かない、期待の革命家ではないと早くから悟って見切りをつけ、裏切りに向かっていたのです。

 

一方、イエス様はユダの心の状態を知られ、その内なる霊を見分けて「悪魔」(ヨハネ六章七十節)と言われていましたが、他の弟子たちは全くこれが分からず、裏切り者は一体誰なのかと互いにせん索しているほど鈍い人たちです。そこで質問に答えた主は

「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」

と言われ、皆の前でユダに与えたのですが、弟子たちはすでに全面的にだまされて、ユダを信頼しきって、誰一人悟るものはいませんでした。ユダは非常に狡猾な男です。

「ユダが金入れを持っていたので、イエスが彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいた。」

(ヨハネ十三章二十九節)

さらに詳細にあげると、ユダはベタニヤ・マリヤが高価なナルドの香油を石膏のつぼを割ってイエス様に直接注いで捧げたとき、献金泥棒ができなかったため女をひどく迫害しましたが、その時、ユダは砕かれた香油の香りから瞬時に計算して、「三百デナリ以上」(マルコ十四章五節)と価値を特定しています。今も香水は知る人が知るもので、私なら目の前でシャネルが砕かれようが、子供の安い香水がこぼれようが値段は分かりません。ユダはある程度、香油を知る上流階級の人だったかもしれません。

 

さらに使徒の一章で自滅したユダにとって代わる使徒を決めるくじ引きをした記録では、詩篇がユダについて預言されていた御言葉として引用されていますが、これはよく読むとこのように続いています。

「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように。彼の子らは、さまよい歩いて、物ごいをしますように。その荒れ果てた家から離れて、物ごいをしますように。債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。」(詩篇 百九編八節)

ユダには妻がいて、子供たちか複数人いて、持ち家があったようです!ある程度の上流ではないでしょうか。しかも名前の意味は「ユダ」、神様への「賛美」です。ユダヤ人と言えども他の弟子たちの名前からも分かるように、すべての親が信仰的な名前を子供につけているわけはありません。このことから考えると、ユダの家系は今で言うところの信仰深いクリスチャンホームではありませんか!

しかし、人間的な意味でいろいろ持っていたユダも霊が悪ければ全く役立たずの悪魔です。

ユダに関わる余談ですが、これはあまり恵まれない話と覚悟で致しますが、イエス様を裏切って後、自殺したユダについて著者マタイは銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに投げ返してから

「そして、外に出て行って、首をつった。」(マタイ二十七章五節)

と記録していますが、同じユダについて著者ルカが書いた使徒の働きではこう記録しています。

「(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。)」(使徒一章十八節)

 

首を吊ったらそのまま死体はぶら下がっているのに、ここでは落下と証言しています。どういう意味でしょうか?ある人は、がけっぷちに木が生えていて首吊った後に枝が折れてまっすぐ落下したと言いますが、信じられません。既に恵まれない素材の話ですね。

しかしなぜ?私はこう考えます。まずはマタイの証言どおり首吊り。その後はイエス様が始めて郷里で伝道されたときに拒まれ、がけから落とされそうになったようにユダヤ人には聖絶思想があります。汚れたものを聖なる都エルサレム城内から除くという発想です。

「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」(ルカ四章二十八〜三十節)

そのためイエス様を裏切ったユダの死体は汚れの極みとして木の上にいつまでも城内に置いておけない、そこで弟子たちによって人為的にがけから捨てられ、ルカの証言どおりに二つに砕かれたのではないでしょうか。霊の見分けなくサタンに着いて行くと後が怖いです。