「パウロとモーセ」 


               

 

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

(ヘブル13:8)

旧約のモーセと新約のパウロ、一見似ても似つかない二人を比較する時、何千年もの時代を越えた不思議な共通点が多くあります。

このことからどうぞ恵みを共に分かち合いましょう。

 

彼らの生まれはいずれもヘブル人ですが、生後まもなく王の権威筋から迫害を受け、九死に一生を得るスリリングな体験がありました。一般人からの通常の迫害でも稀な体験ですが、彼らの体験はいずれも王権筋からのものです。

モーセの場合は産まれたヘブル人男児はすべて殺害せよというエジプトのパロ王の命令による迫害でした。幼子モーセはその際、パピルス製のかごに瀝青と樹枝とを塗って防水加工を施したものに入れられてナイルの岸の葦の茂みの中に置かれ、たまたま水浴びに来たパロの娘がこれを見つけ、はしために引き上げさせたことによって救いを得ました。ここからモーセのエジプト新生活が始まります。

 

一方、パウロの場合は肉の生まれではなく霊的な生まれ変わりである新生体験以降まもなくすると、彼がキリスト者になったことを背信的な異端行為とみなしたユダヤ人たちから陰謀が企てられ、昼も夜も町の門を全部見張られました。パウロを見つけ次第、即刻殺害するためです。

 

「しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。」(使徒の働き922

そこでパウロの弟子たちは、幼子モーセのようにパウロをかごに乗せ、町の城壁伝いにつり降ろして死の試練を逃れさせました。

後日、パウロはこの体験をコリント教会員へ詳細にこう証言します。

「主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれました。」(第二コリント11:31)

ダマスコに住むユダヤ人たちのパウロ殺害計画に関わったメンバーには、実にアレタ王の代官までもあるいは買収されたのか、全面協力していたのです。これがモーセ同様、王権筋につながる国家権力サイドからの迫害体験です。

パウロとモーセ。時代の異なるまさに新旧約の代表的な主のしもべであるふたりの救い体験にも共通点が見られます。

いずれも超自然的な神様との劇的な出会いから献身的な本当の信仰生活が始まりました。

モーセはそれまでの単に知識としてのヘブル人の神様を燃えるミデアンの荒野の柴の中から語られる御声を通じて知りました。炎がついているのに柴が燃え尽きないという不思議で大いなる光景のなか、神様が火の中からモーセに語りかけ、彼をイスラエルの指導者として任命されました。

 

同じくパウロにおいてはダマスコの途上で復活の主イエス様を天からの光が照らす中から語られる御声を通じて知り、その場で今後のなすべき使命について啓示を受けています。モーセもパウロも一方的な予期せぬときに、神様を肉眼で直視ではなく、突然の光のうちに御声で啓示されました。

「彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

(使徒の働き9:4、5)

さらに、共通事項はエジプト王子として各種の優れた富と教育を受けたモーセも、著名な律法学者ガマリエルのもとでパリサイ派として律法教育を厳格に受けたパウロも共に博学な人でした。

モーセは大きくなるまでヘブル人のうばとして母から養育されたので(出エ27)、ヘブル語が出来ただけでなく、学問の盛んなエジプトの言葉や世界中の言葉も学んでいたと考えられます。一方、パウロもまた、ヘブル語以外、ギリシャ語(使徒2137)も流暢に語れました。そのパウロは言います。

「教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(第一コリント14:19)

異言も一つの言葉ですが、一説では博学なパウロは文字通り「五つのことば」すなわち世界の五ヶ国語が話せたという面白解釈もあります。また、ダビデは五つのなめらかな石の一つでゴリヤテを倒しましたが、教会ではほかの人を教えて益を与えるため、知的な「五つのことば」、すなわち異言ではなく、会衆が聞いて分かる知性のことばで「五重の福音」を伝えることも有益です。イエス様を信じると、「罪が赦されて清い神様の子供になれます。」「病が癒されて健康になれます。」「呪いが解かれて経済が祝福されます。」「聖霊に満たされて勝利者になれます。」「復活の体をいただいて永遠命の天国に入れます。」ハレルヤ!「イエス様を信じましょう!」という具合です。

モーセもパウロも諸国の語学と文学に精通した情報通の国際人でした。

ところが彼らは主に召されると過去の栄光も学歴も豊富な知識も情報通のアンテナもすべてを捨て去りました。人間的なものを頼みとせず、神様だけを頼みとして従い、人からの栄誉を一切求めないで神様からの栄誉を求めてフルタイム献身したという信仰姿勢は次の御言葉に示されたとおり偉大です。

「モーセ」

信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11:24-27)

「パウロ」

「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ローマ3:4-9)

過去の栄光を全面放棄したという肯定的な信仰姿勢ばかりか、反対に彼らはマイナス面においても同じく、いずれも過去に殺人体験があり、心の傷も深く、主の中で悔い改めて赦され、生まれ変わった人たちです。

モーセは誤った愛国心で同胞の同国人であるヘブル人を助けようとエジプト人を打ち殺し(出エ212)、パウロも誤った律法主義で神様に奉仕していると信じてクリスチャンを投票で積極的に殺しました。(使徒8191)いずれも当時は自分が正義の裁きつかさと信じて過ちを犯した二人です。

 

モーセを通じて現れた多数の奇蹟、同じくパウロを通じて現れた多数の奇蹟。

聖書を誰よりも多く書いた二人。そのメッセージまでもよく似ていて、時に旧約のモーセによるレビ記や新約のパウロによるヘブル書のように聖書中、最も難しく固い箇所も神様に示されるそのままを彼らは記録。等々、数多い共通点がありますが、ここで彼ら最も大きく神様に用いられた二人の特徴点はやはりその心の姿勢にあります。まさにそれこそ彼らのうちに共通に働いた聖霊様によるイエス様と同じ聖なる思いです。これを体得したいものです。それは魂の救いに対する燃える情熱です。イエス・キリストの人々に対するあふれるばかりの愛とあわれみ、実に自己犠牲さえ全くいとわない程の本物の愛です。

イスラエルが偶像の鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげる大変な罪を犯したそのときです。モーセは命を張ってとりなし祈りました。

「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」(出エ32:31,32)

モーセは「自分が天国の命の書から名前が削除されて、地獄に行ってもいいから、どうか彼らイスラエルを赦して助けてください!天国に入れてあげてください!」と本気で神様にお願いしたのです。ものすごい祈りです。勇気ある我が身を捨てた言葉です。もちろん神様はモーセの願いを拒まれましたが、モーセの同胞の同国人を思う愛は限りなく大きく、十字架で全人類の身代わりとなって我が身に地獄の審判を受けたイエス様の御心によくよく似ています。

私たちはこのレベルの献身的な祈りが出来るでしょうか?

「主よ!この国の救いのためなら、私がどんなに犠牲となってもいいのです!すべてを失ってもいいから彼らを赦して救ってください!」

私たちが今の時代、誰かの救いのために命を削って断食祈祷を捧げるその時、時間を捧げて奉仕に献身する時、すべては愛のゆえに支払われる代価と犠牲の現れであり、イエス様の御心を実践するその時です。あなたの貴重で栄えある行動の時、その与えられたチャンスと霊的祝福を逃さないで下さい。

受けるより、与えるほうが幸いです。不平不満をつぶやくより、とりなし祈る者。憎むより、赦すもの。助けられるより、願わくはチャンスがあれば助けるものになれれば幸いです。

 

最後に新約のモーセ、パウロの思いです。

「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9:1-3)

なんと、モーセと同じ告白ではありませんか!時代を越えても共通して主のしもべに生じる変わらない聖霊様の御心と御思い、それがイエス様の十字架で完結したアガペーの犠牲愛です。聖霊様は旧約のモーセ、新約のパウロ、そして新新約の私たちにも働かれ、同じ思いを与えて下さります。それは主からの聖なる重荷です。救霊への情熱と強烈な願望、おしせまる重圧レベルの深いとりなし祈り、それは聖霊様によるものです。決して私たちを滅ぼす悪いものではありません。むしろ聖徒はこの聖なる重荷があるほうが本当に選ばれた霊的に目覚めた大物になれます。主は一人悩むモーセに語られました。

わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。」(出エ11:17)

聖霊様がモーセのみならずイスラエルのつかさである70人の長老の上にも置かれたので、彼らは使命感ある奉仕者に生まれ変わりました。もし、魂の救霊に対する情熱や聖なる重荷が感じ取れないならば、聖霊様の満たしを祈り求める必要があります。本当に祈り、霊的現状に目覚めるならば、多くの心身ともに病める人々、孤独な人々、私たちの助けを今、必要としている誰かが見えてきます。新旧約の著名な主のしもべに働かれた聖霊様は今も同じ思いを私たちに継続的に与えて下さります。聖霊様からいただいた純粋で聖なるその愛の思いをもってあなたの御教会に全力で奉仕して下さい。牧師先生を愛して助ける祈りの勇士となって下さい。

人は愛するもののためにはどんな大きな代価を支払っても惜しくはありません。愛は不可視ですが、可視なる手段として支払われた代価の大きさを測るとおおよそ愛の深さが見えてきます。親が子を愛するからこそ、犠牲的に、しもの世話から始まり、生涯養育し教育と優れた多くの物を無償で与え続けるように、愛する人にはどんなに犠牲を払っても、高価な物を贈っても決して惜しくはありません。

神様から私たちに与えられた愛の大きさは次の御言葉に表れています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

最も大切なひとり子イエスさえ下さったレベルの犠牲愛です。イエス様も御自身の貴い命を自ら私たちに無償で与えて下さいました。なんと大きな代価と愛でしょうか。物品でも支払われた代価によっておおよその価値は分かります。鑑定が難しい宝石も骨董品も絵画も評価額のプライスを聞けば価値が見えてきます。私たちの価値、それは重大な神様のひとり子イエス様が本気にいのちを捨ててあがなう程まで高価で貴い存在なのです!何かに失敗し、自信を失い、自分の本当の価値が分からなくなる絶望の時、イエス様を見つめましょう。その証拠の血潮を告白しましょう。私の価値がどんなに大きいのか再発見できます!あなたは出来る人です。神様が共におられます。

 

最近教会の車が壊れました。LPGガスで黒一色のクラウンマジェスタでした。当初はリッター60円台の低燃費で経費削減のためにも喜んで乗っていましたが、最近エンジン不調でオイル漏れと小爆発を繰り返し、最後は「ドッカーン!」と大爆発して渋滞をつくり、パトカーのお巡りさんまで来て、派手にその長い生涯を終えました。

そこで新たな車を手に入れようと模索して聖書を開きました。

シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(マタイ21:5)

「なるほど!私たちの憧れであり、模範者なるイエス様の乗用車は小さな「ろばの子」。それも、「荷物を運ぶろばの子」。ということは…小型の荷物を運べる貨物自動車!しかも後でまた返します。と記されているからレンタル!?」

嬉しくてたまりません。フルサイズの大型クラウンマジェスタからレンタカーの小型貨物車!私にとっては、ものすごいへりくだり。自我もプライドも粉みじんに粉砕です。

更に聖書を読むと発見!「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(マルコ11:2)

「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」!ということは、「新車!?」

確かに神様が私たち一般聖徒に願われる御心は、私たちが成功して豊かになり、ピカピカの新車に乗ることです。

しかし、私はみじめなしもべでまだ成功していないから高価な新車を買うお金がありません。あるのは、最近、教会建築で建築献金30万円以上の総資金を全額使い果たした直後ゆえ、タイミング悪く壊れたなあという感じだけです。

「お金がない!車が必要。出来れば送迎用ワゴン車と乗用車ニ台はほしい。」

こんな時、どうするでしょうか?

当初は最安で車を購入できる方法を調査した結果、警察署に登録して古物商の免許を取って業者の出入りするオークション会場へ行って直接仕入れようと思いました。しかし、登録上とはいえ、私が商人に変身する事は御心ではないと思いました。そこで、今度はパソコンを立ち上げてネット上で安く購入できるヤフーオークションにログインしました。するとお目当ての車がほとんど土曜の夜に出品終了ばかり。本来は翌日の主日礼拝にあわせて最もよく祈るべき時間帯にパソコン見つめて長時間のオークション。これは牧師として致命的なマイナス行為です。結局、二週間トライして他の入札者に負け続けて一台も落札できませんでした。そして日曜の夜には私の義理の母である朴栄玉牧師からのありがたいお叱りのお言葉。

「今日のメッセージは何だ!もっとしっかり聖書を読んで、祈らないと全然、恵まれない!土曜日に何している!」妻からも「礼拝中、聖徒を眠らせることは罪ですよ!」

ダブルパンチにはさまれて私自身も本当にその通りだと思いました。

「牧師として土曜の深夜にオークションはまずい。もっとしっかり礼拝準備しよう。」こうして悔い改めた後、聖霊様からいただいた信仰の賜物を働かせながら、車が必要かつ予算不足であることを聖徒には誰にも話さないで真面目に祈りました。「やはり私の本業は祈りだ!」

するとその後の二日間で予想外だった祈りの答えとして二件の良い知らせをお電話いただきました。ひとりは韓国人、一人は日本人。彼ら敬虔な聖徒たちが愛の犠牲を支払っておのおの車を教会に捧げてくださいました!

こうして奇蹟的に乗用車とワゴン車の必要が現実に満たされましたが、「向こうの村からほどいて引かれてきた」ような現車を確認すると、なんと「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」のような色と形の新車でした!

神様に感謝します。私の仕事はやはり御言葉と祈りです。