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 こんにちは。ゲストさん。次の四つの中から一つを選んでお読み下さい。その後、ここに書かれた祈祷文を声を出して読み上げ、本当に信じてください。

その時、あなたはおめでとうございます。天国にログインされました。  

二つのメッセージ

三拍子の祝福 

四つの法則

五重の福音

祈祷文:「天の父なる神様、感謝いたします。今、信仰を持って御前に進み行きます。私は今まで私を造られ命を下さった創造主の神様から離れて罪人として生きてきました。私は罪を悔い改めます。罪なき神様の一人子イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって十字架にかかり、血潮を流して死んで、三日目に死人の中からよみがえられたことを私は信じます。イエス様の貴い血潮で私を洗い聖め、復活の命で満たして下さい。私は救い主イエス・キリストを心の王座に受け入れます。助け主、聖霊様を私の心に与えて下さり、今から永遠まで主と共に生きていけますようにお導き下さい。全ての罪から私を守り、御言葉の力で成長を与えて下さい。イエス様の血潮により契約が結ばれた今、神様は永遠に私の父となり、私は永遠に神様の子供とされたことを宣言いたします。私は救われました。私は勝利しました。感謝します。主イエス・キリストの御名によって、心からお祈りいたします。  アーメン。」

二つのメッセージ

     1.裂いて渡されたパン

 ルカ二十四章三十節によると、エマオ途上にいた弟子たち二人は、復活されたイエス様御自身に道で出会い、共に歩み、聖書の話しを聞き、心が熱く燃やされ、夕食の席までも共にしたのに、不思議なことに彼がイエス様御自身であることがわからなかったと書かれてあります。世界最高水準の旧約聖書講解メッセージを直接イエス様からお聞きする光栄に預かれたのに霊的に鈍い二人はイエス様が悟れなかったのです。しかしこのような二人の閉ざされた霊の目が開かれ、そこにおられるお方がなんと主イエス御自身であることを本当に悟れたきっかけとなった出来事はイエス様がパンを裂いて彼らに与えられたまさにその瞬間のことでした。

 今の時代も繰り返し聖書の話しを聞き、心熱くされますが、私たちの霊の目が開かれ救い主イエス様を本当に知ることができる神様との劇的出会いの体験は十字架の言葉であり、イエス様の肉が十字架上パンを裂くように裂かれて血潮を流されたという神様の御子の身代わりの犠牲愛、この真理をイエス様より直接受け取るその時です。現実に十字架についたイエス様の血潮を見上げない限り、本当の信仰は生じません。

 私は一度、夢でピラトの庭でムチ打たれた直後のイエス様を見たことがあります。私は彼がイエス様御自身であることがなぜか分からないけれど霊のうちですぐわかりました。イエス様はムチ打たれた後、体をひきずるようにして私のそばに来てそこで倒れました。そのイエス様の御体は驚くほど深い無数のムチ打ちの傷跡がついたまま真っ赤な血まみれ状態でした。そこで私は早く救急車を呼ばないと、このまま放っておけば出血多量のまま死んでしまうと思い、心が震えながら近づいてみました。よく近くで見るとイエス様は当時の私のイメージとは少し違い、黒っぽい髪をしたユダヤ人の好青年という感じでした。私のイメージではもっと年配で金髪のイエス様でしたが、まだ若い三十三歳の普通の若者でした。イエス様のひとみには驚かされました。多くの人を惹きつけるような本当に清らかで聖なる美しい目でした。しかし、その表情はむち打ちと暴力により、激しい苦痛に満ちたものであり、白い歯を食いしばりながら、ひたすら耐え忍ばれているようでした。私はイエス様の苦しみもがく御姿を見つめるうちに感情を制することができなくなって、そこで大声をあげて泣き出して「イエス様!。」と叫びながら彼に抱きつきました。するとその瞬間、イエス様の全身驚くほど血まみれだったその赤い大量の血潮が私の両手にも移ってしまい私も血まみれで真っ赤になったのです。ところがなんの不快感もなくむしろイエス様の血潮は人を聖める力がありました。不思議なことにイエス様の血潮を受けるや否や、私の唇からは次々と私自身の罪の告白が何の抵抗もなくスムーズに出てきたのです。普段ならば一時間位祈らないとすぐには心底出来ない悔い改めもイエス様の血潮を受けると速やかにしかも自発的にどんどん出てきたのです。私だけでなくイエス様の血潮に触れられた人ならば誰でも心からすぐに悔い改めたくなるものだと思います。悔い改めが自然に楽しくなるのです。そこで私は目覚めました。目覚めた後も心は熱く、目には涙でした。

 イエス様が十字架につけられ血潮にまみれて激痛を受けられたのは、私たちを罪の世から救って本当に神様に仕える御自身の聖なる民として聖別するためでした。イエス様の犠牲を思う時、ただ感謝せずにはおられません。何を持ってしてこの純粋な聖い愛に答えてお返し出来ましょうか。十字架で身体が裂かれた命のパンなるイエス様に触れれば、閉ざされた霊の目が開いて救いと聖めが受けられます。

       2.いちじく桑の木

 取税人の頭ザアカイは、頭としての権力も地位も財産も十分ありましたが、これら環境的要因では心が依然満たされず、環境によらない普遍の愛と全き救いに対する飢え乾きが強くありました。そこでエリコに来られた愛の救い主イエス様を一目見ようと群衆に紛れ込みましたが、背が低かったので群衆が壁となり、どんなに背伸びしてもみても人々の背中しか見ることが出来ません。嫌われ者のザアカイを前方に出してくれる親切な人もありません。この事実は象徴的に元来、ザアカイのように汚れた罪人が聖い神様に出会うことは、罪の呪いや不信仰が隔ての壁となり、どんなに背伸びをしてみても見ることさえ不可能であることを暗示しています。しかし、ここに希望の福音があります。誰であれ、真理を求める熱心さえあれば、主との出会いの奇蹟を可能にする一つの救いも準備されていました。ザアカイの登ったいちじく桑の木です。

 この木は幹が短く枝は四方に伸びているため、子供でもたやすく登れる木であり、小柄なザアカイでも登ることが出来ました。ごくありふれた木ですが、これにより、そこからイエス様を見つめることができ、主との出会いを可能にし、救いの道が開かれたのです。

 私たちにもこの木のような主なる神様との出会いを可能にする登りやすく、ありふれた木だけれど確かに不可能を可能にマイナスをプラスにする大切な木があるのです。それがイエス様のつけられた荒削りの十字架の木です。十字架の言葉は滅びに至るものには愚かであっても、救いを受ける私たちには神様の力であり、登りやすいいちじく桑の木のように、十字架による救いもたやすく全ての人の為に準備されており、子供にも理解出来る簡単な教理であって、ただ信じるだけで、罪赦され、救われるのです。人間の努力や苦行や善行によらず、ただ恵みのゆえに信仰だけで救われてたやすく神様の子供になれるのです。今、声に出して上の祈祷文を告白し、これを心で本当に信じて下さい。あなたはただで救いを受け取れ、天国にログインされます。