三重の福音part1


「三重の祝福」の理解

1. 「三重の祝福」の意味

「五重の祝福」が私たちの信仰のための理論(Theory)と教理(Doctrine)であれば、その理論と教理を実践する実際(Practice)と適用(Application)がなければならない。実際に適用がない理念は机上の空論に過ぎないためである。このような福音の適用が「三重の祝福」である。「三重の祝福」は救いのある一面だけを強調したのではなく、私たちの霊、魂、肉にかけて、人生のすべての領域に適用させようとする全人的救いの図式的表現である。

2. 三重の堕落と「三重の祝福」

1) 三重の堕落

善悪の知識の木から取って食べた時、アダムとエバは神様の御言葉通り霊的に死んでしまった(2:1617)。霊が死んだというのは、神様から分離されたという意味である。神本主義から、人本主義に転落した結果、人間は神様があらかじめ備えてくださったエデンの園で、信仰と従順をもって生きる代わり、神の不在の世界の中で、人間の制限された手段と方法と知恵によって、生きるしかなくなったのである。アダムとエバが堕落したことによって地は呪われ、いばらとあざみを生えるようになった(3:1718)。これから始まって今日に至るまで人間の人生にのろいのいばらとあざみが生えていない所がない。人類は科学文明を発展させ努力しているが、家庭と社会、世界の中に憎しみのいばら、不安と恐怖のいばら、挫折と絶望のいばらが生え、更には死のいばらが生え、人間はその苦痛によって身悶えしているのである。最後に、アダムの犯罪によって、人間は死んで土に帰るしかない有限な存在になった(3:19)。死と死に至らせる病が人間に近づけるようになった。

2) 三重の祝福

罪のない主が十字架の刑罰を受けたのは、まさに私たちの罪と咎を代わりにあがなうためであった。十字架の上でイエスが「完了した」と叫んだ時、私たちは私たちのすべての過去、現在、未来の罪を赦され、まるで一回も罪を犯したことにない人のように正々堂々と神の前に立つことができる法的資格を得るようになった。 また、祝福の源である神の子が私たちの代わりに、呪いを背負い、血を流すことによって、のろいの力がなくなり、憎しみ、不安、焦燥、恐怖と絶望、挫折と死、罪責、定罪などすべての刺が除かれた。そして心の中に平安の川が流れ、人生の中に祝福の川が流れるようになるのです。アダムの堕落によってもたらされた肉体的病と死もやはりイエスのあがないによって、完全に回復された。これから私の肉体の残りの生涯を生きる間、イエス・キリストのあがないに立脚して、私たちを、破壊する病に対する治療と健康の回復を、画然として主張できるようになるのである。またキリストの中にいる人は、その肉体が復活する命の種を得るようになった(Tコリント15:42~45)

 

II. 霊魂が恵まれる祝福

III. すべてにおいて恵まれる祝福

W健康になる祝福