【 奇蹟を行なう力


              

 

 聖書から奇蹟を削除したなら相当薄い本になると思います。各種の奇蹟の中でも最も偉大と思われることは私たちが救われたことです。私は自分だけは絶対クリスチャンにならないと思っていました。もし奇蹟があるのなら、このような自分がかえられてクリスチャンになること、これ以上の奇蹟はないと本気で思っていました。当時、全くこわいもの知らずで無鉄砲だった私の冗談に

「もし神がいるのなら、出て来い!つぼの中に閉じ込めてやるから!」

と言って友人を笑わせていましたが、今は本当に悔い改めています。神様がおられなければ何事もありえません。私はかえられて神様を畏れる、畏敬の念をもって敬う心が与えられました。今、私にとってこわいものは、第一位が神様で、第二位が断食で、第三位が怒った妻です。

初めの人間アダム創造から奇蹟の連続である聖書ですが、エバが造られた時、アダムが寝ている間に連れて来られました。その際、初めからエバは大人の女性でした。それが分かるのはアダムの言葉です。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記二章二十三節)

決してこれは幼稚園児の会話ではありません。知的かつ美的センスもある大人の言葉です。では、少女エバはどこに行ったのでしょうか?赤ちゃんエバはどこに行ったのでしょうか?エバは初めから完成された大人として結婚適齢期の成熟した女性だったのです。神様のなさる奇蹟は、このように時間と空間のプロセスを超越して起きます!

新約時代もそうです。荒野でイエス様が五つのパンと二匹の魚を裂いて増やされた奇蹟の際、ここでも時空のプロセスを超越して創造されました。通常ならパンは料理のおばさんが大麦をこねて長時間発酵させて、焼いて完成のはずですが、イエス様の御手の中では瞬時に完成です。魚も通常なら漁師のおじさんが網で捕らえて、並べて、天日で長時間、干して乾いたら、さあ!完成です。

ところがイエス様は料理のおばさんも漁師のおじさんもいないのにお一人、奇蹟をなされました。まさに死から命。闇から光。無から有を造られる神様をほめたたえます。

―高所恐怖症―

イエス様のなされた奇蹟の一つに水上歩行があります。深夜のガリラヤ湖上を乾いた地上を歩むかのごとく歩まれたイエス様。まさに奇蹟です。今でも透明度が高い澄んだ湖ガリラヤでは当時もっと澄んでいて深夜といえども月明かりに相当深みまで透けて見えたはずです。その上を恐れることなく堂々と歩まれたイエス様。わずかですが、同じく歩んだペテロ!まさにこれは高所を克服した冒険的な歩みです。

ある姉妹は高所恐怖症でした。そのためビル五階にあった当時の私たちの教会に来るのにも揺れるエレベーターが恐くて、室内の非常階段をゆっくりと一階から歩いて上がってきました。その後、姉妹は水上歩行された勇敢なイエス様の奇蹟の力を受けて聖霊様に満たされて、高所恐怖症が癒され、なんとエレベーターを使って一人で教会まで上がって来られるようになりました!人の人格や行動が変わる奇蹟が一番の奇蹟だと思います。ただ、その後、母の救いに感激した息子の問題が残っていました。彼は一度、私たちの街、東京立川まで来ようとしましたが、断念しました。そのわけは「飛行機が恐い」ということでした。

―ひきこもり―

また、聖書では十一弟子たちがユダヤ人からの迫害を恐れてマルコの二階部屋で戸を閉めて鍵をかけて集まっていた時に、よみがえられたイエス様が扉をすり抜けて入って来られました。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

(ヨハネ二十章二十一〜二十三節)

やがて、ペンテコステの日に聖霊様を受けた弟子たちは、新たにかえられて大胆に部屋を出て明るい光の下、路傍でも伝道するようになりました。

 

 ある兄弟はひきこもりでした。元々、現役で国立大学に入学するほど勤勉で優秀でしたが、ある時期から心の病となり、誰が来ても自室の扉を閉めたまま鍵を開けない。両親にもおばあさんにも絶対、扉を開かない、こんな状態が長く続いていました。父親はこの一人息子を自分の経営する事業の後継者にしたかったのですが、今では希望もなく、なかばあきらめ状態でした。

そんな環境に導かれた小さな私にできることはただ祈ることだけでした。扉に手を置いて「イエス様。どうかこの若い兄弟をあわれんでください。部屋から出て、光の下で自由に暮らすように助けてください。」その後、彼が部屋から出てきたことをチャンスとして軽く抱きしめながら按手の祈りを致しました。「イエスの御名によって、ひきこもりの力を打ち砕く!」それからのことです。彼は突然、冬眠から覚めたかのように外に出て、知り合いのところで働くようになり、その後は父のところに帰ってきてこう言いました。「お父さん。私を雇い人の一人にして、つかってください!」

この言葉と態度の豹変ぶりに驚いた両親が後日、こう語りました。

「こんな立派な言葉と知恵一体どこで覚えたのだろう。」私はその報告を聞いてすぐに分かりました。「その言葉は聖書の放蕩息子が父の待つ家に帰るときに語った言葉だ!」 今は父親の仕事を助けながら毎朝早くからまじめによく働く、ひきこもりから完全に開放された兄弟になりました。イエス様が心の室内に入って来られるとすべてが明るく変わります。

自己封殺

それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」(マルコ五章五節)

自分を傷つける悪霊レギオンにつかれた男の姿ですが、同様の自殺未遂、自己卑下、自己虐待、自己拒絶、不健全な自己否定、自責の念、罪悪感など自分をいたずらに傷つけている人が多くいます。モーセの十戒に「殺してはいけない。」とあるように自分自身にも自己封殺しないよう高価で貴い神様に愛されている意識を持っていたわりが必要です。クリスチャンは皆、神様の神殿だからです。

 

―精神分裂―

「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」(マルコ十六章九節)

深い病からの回復者こそ優先して徹底的アフターケアが必要です。この女は七つの悪霊から開放された人です。過去の人は医学的見地からは精神分裂です。

このような人を最優先してよみがえったイエスは再会しておられます。

アフターケア―

「イエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」(ルカ八章五十四節)

ここでも再発防止策は救霊後の御言葉、霊的糧による養育です。救われた後もホローする姿勢です。

ある兄弟は通勤時、自動車事故に遭い、接触時あと十五センチずれていたら命はなかっただろうとの現場検証を終え、全額保険適用で車は買い換え、一応の解決を得ました。以来、奇蹟的に無傷で救ってくださったイエス様の恵みを知り、感謝を捧げ、この事故がきっかけに信仰が強くなり、以前にも増して教会に来るようになりました。ところが、事故後十日目に突如むち打ちの痛みが現れ、更に事故後三ヶ月間は精神的後遺症で恐れから車のハンドルも握れず、夜には度々大きな鉄のかたまりが自分のかたわらに落ちてくる悪夢に悩まされるようになりました。これは環境と体の癒しに心の癒しが追いついていない心の負傷が原因です。軽度の病気や怪我は自然にも治りますが、重病や深い怪我は手術を受けないと自分では癒せません。癌のように自覚症状さえない危険な病気もあります。健康診断時にCTスキャン等ではじめて早期発見できるように聖霊様の癒しの奇蹟が大切です。このように奇蹟を信じて祈りましょう。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇 百三十九編二十三〜二十四節)

そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」(ルカ八章三十八節)

悪霊が追放され、魂の救いを得たら、心のアフターケア(心の救い)も大切です。ゲラサ地方の男にとってイエス様の弟子としてフルタイムでお供することより、長年家族を離れ孤独な墓場生活ゆえ、失われた家族との愛の交流の回復が最優先すべき癒しでした。主の癒しの奇蹟の手段も様々です。

大木を抜いた後は、そこに土を正しく埋めないと危険な落とし穴にもなります。

「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。

「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ十一章四十四節)

ラザロ復活は人にはできない神様なるイエス様の領域の仕事でした。しかし墓の石を取り除けて、出てきたラザロを自由に解くことは人ができる領域の人の仕事でした。できるところまではベストの努力をして、できない神様の領域に奇蹟を期待しましょう。イエス様が救われ、私たちはほどく務めが託されています。救われたクリスチャンの心を取り巻く古い罪の習慣、反聖書的な文化やしきたり、間違った考えや異教、占い的発想から解放させるのが、私たちの務めです。

―人目を避ける生活―

サマリヤの女は夕方の涼しい時刻に水汲みをせず、真昼の最も人のいない時刻をあえて選んで井戸に来て水汲みをするような人目を避ける生活実態でした。もし彼女が遊女だったなら罪責意識ゆえ世間を回避したでしょうが、あるいは本当に純粋で男性にだまされ続けて裏切りと連続失恋体験者だったならば、対人恐怖と心の傷はとても深いはずです。

このような姉妹も永遠の夫なるイエス様に出会ってからは、サマリヤの住民を導く大衆伝道者となり、目だって用いられましたが、その奉仕の只中にも主の配慮ある癒しの奇蹟がありました。サマリヤの女のように隠れた闇の生活をしていた人こそ救霊後、むしろ大胆、積極的に人前に出ることです!

ザーカイのように不正の富を得ていた人こそ救霊後、むしろ大胆に施すことです!

パウロのような迫害者こそ誰より主を愛する伝道者になることです!

弱い者は勇士だと叫び、貧しい者は富んでいると叫び!すべて過去の行いの正反対をするときにその行い自体が私たちを正常な位置へ戻す中立位置の癒しの奇蹟となります。沢山の奇蹟の中でも一番優れていることは人が救われ、かえられる奇蹟です。