キリスト教会史


 

               黙示7つの教会

終末期の世界の国々を預言する上で忘れてはならないもう一つの王国が天国です。天国は教会を通じてこの世界に現われており、特に黙示録に啓示された7つの代表的教会は、そのまま当時実在した7つの大きな地方教会でしたが、実はこれら7つの教会は同時に預言的な意味を持った初代教会以降、今日まで約2000年間の教会史を順次現わしていたのです。これら7つの教会へのメッセージを私たちへのメッセージとして理解できると今の時代が歴史的にどの位の時期であるのか、おおよその外枠が把握でき、イエス様の再臨に伴う世界の終わりがどの位まじかなのかを理解する助けになります。では、御一緒に順次7つの教会を簡単に見てみましょう。

 第一にエペソ教会へのメッセージです。黙示録2;1―7これは同時にAD32年から100年までの期間の全世界の教会史を預言しています。単にエペソ教会一つではなく、この期間地上に存在したすべての教会についての共通メッセージです。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2;3、4)ここにエペソ教会の忍耐力は賞賛されていますが、初めの愛を喪失したことは非難されています。初代教会の頃はイエス様に直接お会いして説教を聞き、数々のいやしと奇跡を目撃し、ペンテコステに注がれた聖霊様の力強いリバイバルの働きの体験者が多くいました。当然そのメンバーには使徒パウロや使徒ペテロや使徒ヨハネなど力あるリーダーたちが含まれており、イエス様に直接触れられた幸いな証人たちが多数いました。そのため、当時の教会員たちは愛に燃え、命に満ちています。ところが、やがてAD100年位までの間にネロ皇帝率いるローマ軍の大迫害が始まり、頼りの実力ある使徒たちが次々と殉教し始め、残された教会員の中にある種の絶望と初めの愛から冷めた背信の動きがあったのです。そこで、このような時代背景の下、与えられた啓示の御言葉が「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」(黙示2;5)という強い奨めだったのです。

  第二にスミルナ教会へのメッセージです。黙示録2;8―11これはAD100年から323年までの期間の全世界の教会史を預言しています。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録2;10)

文字通りスミルナ教会への警告であり、今日この箇所を読んだある人々にとっては直接の心を打つレーマの御言葉にもなりえますが、もう一つの預言的な意味は「十日の間」受ける苦しみが、そのまま十人の歴代ローマ皇帝を差しており、初代ネロ皇帝から十代目のディオクレティアヌス皇帝まで引き続いて教会を迫害し、これがAD323年まで続きました。そして十一代目のローマ皇帝コンスタンティヌス一世が奇跡的に救われ、初代キリスト教皇帝となって、使徒パウロの殉教地に巡礼まで行き、ローマの国教をキリスト教に指定し、「十日の間」と預言されていた十代の皇帝たちによる大迫害時代は終息しました。

 第三にペルガモ教会へのメッセージです。黙示録2;12―17これはAD324年から590年までの期間の全世界の教会史の預言です。ついに教会は大迫害から逃れ、一息ついた状態でしたが、そこに落とし穴がありました。ペルガモの意味は「結婚」ですが、当時教会はローマの国教となったためかえって制度的に政治利用され、土着のバビロン宗教にも妥協してそれらの政治や宗教と「結婚」した教会のように混同し、迫害に耐えていた頃の真の命を失なってしまったのです。「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」(黙示録2;16)私たちにとって信仰上の迫害は決して願わしいものではありませんが、時には迫害のゆえにこそ熱心となって神様の栄光を現わすこともあるのです。

 第四にテアテラ教会へのメッセージです。黙示録2;18―29これはAD590年から1517年までのカトリック全盛期であった中世暗黒時代とも呼ばれた期間です。この期間について聖書は警告していました。「あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。…」(黙示録2;20)この頃、中世暗黒時代と言われた理由はローマに聖ペテロ教会を建設するための資金集め目的に免罪符制度を教会が導入し、人の罪をただ悔い改めによってイエス様の血潮で洗われ赦される真理を教えずに、犯した罪の大きさに従って高額な免罪符を購入させて罪の赦しを教会から受け取るという異端的思想が説かれ、軍事的にも教会制度を利用した十字軍の遠征(1099−1187)が行なわれ、教会はグノーシス的異端思想に悪影響を受けて単純な福音信仰以上に特別な奥義が必要と考えられ、礼拝に聖遺物やマリヤ像が持ち込まれ、口づけして祈りを偶像に捧げるまで堕落していたのです。そのためこの時代には「イゼベルという女をなすがままにさせている。」という警告通り聖母マリヤという女の像をなすがままに偶像崇拝することを避けるよう預言していたのです。

第五にサルデス教会へのメッセージです。黙示録3;1―6これはAD1517年から1750年までの宗教改革に影響されたプロテスタント運動についての預言です。サルデスという名は地名ですが、意味は「逃れた者たち」です。その名の通り堕落したローマカトリックから「逃れた者たち」の群れであるプロテスタントグループが初代教会のように純粋に聖書の原点に帰ろうと宗教革命を起こしました。そのためこの時から革命前のカトリックを旧教、革命後のプロテスタントを新教と呼びますが、大切なことはいかに今、聖書原点に忠実であるかということです。宗教改革者で有名な中心人物マルチン・ルターは元々、修道士を目指していましたが、ローマでピラト官邸の階段に宗教的な苦行目的でわざと散りばめたガラスの破片の上を歩いている時、「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)の御言葉が心に臨み、このような宗教的苦行では救われずただ信仰によってのみ救われる信仰義認を悟り、その場を離れて、当時のローマカトリックの教理的な過ちを指摘した95か条の抗議文を掲げて宗教改革を導きました。当然大迫害を受けましたが、聖書の預言通りの摂理の中で行動したため新しいサルデス時代が始まり、ここから抗議・抵抗・対抗の意味を持つプロテスタントと呼ばれる新しい運動に火が付いたのです。

第六にフィラデルフィヤ教会へのメッセージです。黙示録3;7―13これはAD1750年からAD1905年、第一次世界大戦直前までの期間、福音が全世界規模で拡大されたリバイバルの頃です。「わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」(黙示3:8)この期間イギリスのリバイバルは宣教師を通じてアメリカ、ヨーロッパ、インド、アフリカ、中国へと広がり、福音の門は地の果てまで大きく開かれ急速に世界宣教されていきました。この頃、日本でも例外なく国際化時代の流れの中、明治憲法で信教の自由が認められて宣教師が多数来日したため明治21年には1年間で七千四百人のクリスチャンが増えるリバイバルの動きがありました。しかし、政府がこれに猛反対して教育勅語を掲げ天皇こそ神であると定め、キリスト教の学校から聖書教育を禁じ、クリスチャンの教師たちを公立学校から追放し、聖書を持つ生徒を退学させたのです。そのためクリスチャンは激減し、その後、教育と政府と軍部が一つになってマスメディアを支配した世界大戦へと盲目的に突入して行ったのです。

そして最後に今、第七のラオデキヤ教会へのメッセージです。黙示録3;14―22これはAD1905年から今後訪れる七年大患難時代の直前までの期間、すなわちラオデキヤ教会へのメッセージはそのまま今、私たちへの直接預言です。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい、また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:17、18)今の時代は確かに物質的に昔より豊かになったあらゆる文明の利器に囲まれた環境ですが、信仰的には注意しないと初代教会の迫害と命を懸けて戦ったあの頃の霊的豊かさとは程遠く主の御口から吐き出されてしまう危険性ある時代です。すべてに優る霊的豊かさを求めて例え代価を支払ってでも信仰に立つべきです。ここに当時の目薬の産地ラオデキヤのクリスチャンに目薬購入が薦められていますが、これは同時に終末になると医学が著しく発達する癒しの時代になることをも預言的に暗示しています。そして霊的目薬を塗って目覚める時です。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事する。」(黙示3:20)この招きの本当の意味は、ストレートに七年空中婚宴への招きなのです。誰でもイエス様を救い主として信じて悔い改め、心に受け入れた人は神なるイエス様とともに食事ができるほど親しい天国の交わりに入れるのです。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3:21)ハレルヤ。

黙示録では3章の最後までに七段階に分類された一連の教会史にふさわしく「教会」と言う御言葉が7回も出て来ますが、突然4章から19章までの天国の情景では1回も出て来なくなります。この世の教会クリスチャンが天国に移されて教会時代が終わり、天国全体が礼拝の中心地に代わるからです。4章からは、むしろ空中再臨の日を思わせる呼びかけが使徒ヨハネに聞こえます。「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった、また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」(黙示4:1)これはちょうど私たちも天から下って来られるイエス様の空中再臨の日、聞くことのできる御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのようです。(Tテサロニケ4:16、Tコリント15:52、マタイ24:40、25:6)世界の歴史も教会史もすべて聖書の預言通り正確に流れて成就して来ました。今後も聖書預言は必ず成就し続け、イエス様の空中再臨の時が来ます。天国は非常に近いです。このように教会史を体系的に学ぶと、今こそ!心の戸の外に立ってたたいておられるイエス様の御声を聞いて心の戸を開けるべき、まさに救いの最後の機会であることが分かります。