路線


 

    聖書の中の小聖書イザヤ書

私たちの人生は汽車に乗った永い旅路のようで、終着点はすばらしい天国です。日々、神様のひかれた路線に従って導かれていきます。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)聖書が私たちの行くべき道を照らしますが、特にイザヤ書の啓示は歴史の路線の全体像をはっきりさせます。

 私が始めて教会に行ったのは小学生の頃、広い敷地面積を持つアメリカ人宣教師の教会でした。その日、一人短い足で、てくてく歩き続けてやっと教会に到着できた時刻は、ちょうど礼拝終了時の解散の頃でした。その教会には興味深いたくさんのおもちゃがあり、黒板には英語を教えた後の単語がいろいろ書いてありました。それを見た時、私は子供ごころながらも「ここは教会なのに、少しちがうな。でも、おもしろいあそび場を新発見したから来週もまた来よう。」と思いました。ところが、教会の先生は少し困った顔で私にこう言われました。「私たちの教会は今日限りで閉じられて、来週から遠い別の場所に引越します。せっかく始めて来てくれて、すまないけど来週からはここには入れません。」私はこれを信じないで次の週も一人で教会へ行きました。しかし、その教会はすでに門が閉じられ、鍵付きで広い敷地の内庭にも木と鎖のフェンスがはって入れなくなっていました。こうして私は信仰を失い、堕落した生活が始まりました。やがて17才になった時、私は再び別の教会へ通い始めました。そこも、アメリカ人宣教師による教会でした。礼拝終了後、立たされてマイクで自己紹介させられました。「私は泉と申します。イエス・キリストのことは、まだよく分かりませんが、教えて下さい。よろしくお願いします。」その後、2年間、聖霊を受けるまで悪い求道者となりました。そんなある日、学校の図書館で聖書について研究していると変な発見をしました。「教会では聖書が真理で、全66巻で完成されていると教えているのに、この聖書は66巻以上あるではないか。」私は一部のカトリックで使う外典も含んだ聖書の存在を知り、これを片手に心が悪く躍りました。「今日はこれについて質問しよう。これなら勝てる。ついに教会指導者と議論して教会に勝てる時が来た。」私はいてもたってもいられなくなり、授業をそのままさぼって、目にうろこの付いたサウロのように変身して、全力疾走で教会へ駆け出しました。そして、教会指導者の一人にこの外典の存在について質問し、その他いろいろな人間では答えられないような難しい質問をしました。すると案の定、私の納得のいく解答を得られず、私はごう慢な誤った勝利感に満ちて、その教会を後にし、心に決意しました。「もう、この教会は卒業だ。来週からは、もっと深い真理を知っている別の教会に行こう。」次の日曜日、私は自転車に乗って近くにあった別のアメリカ人宣教師の教会に向かいました。そこはアメリカ、ユタ州出身の有名な異端団体でした。彼らなら、よく自転車に乗って2人組で熱心に走り回って伝道しているから、何かは知っているに違いないと思い、そこに向かったのです。ところが、私は過去に何度もその建物の前を通過していたのに、その日だけはどうしてもこれが見当たらなかったのです。不思議なことにその宗教団体の建物があったはずの周囲を何度もぐるぐるまわって必死に探しましたが、これが全く見えません。結局、1時間半ほど探しても見つからなかったため、コンビニで昼食を買って食べ、時計を見るとすでに礼拝終了の時刻だったため、あきらめて帰宅し、次の日曜日からは、元の正しい十字架のある教会へと帰り、悔い改めて再入学させていただきました。後に、その教会で救われてから知ったことは私がどうしても発見できなかったあの教会は教会ではない全くの異端であり、その場所は、驚いたことに私がコンビニ前で昼食をとっていた、ちょうどその正面に大きくあったということでした。今思うと神様が哀れんで、さまよう私に御使いを送って目隠しして、これが見えないように、守っていて下さったのです。こうして、私は十字架のある教会で救われて目のうろこが取れた信仰生活が始まりましたが、その後、韓国人宣教師の教会に通うようになってから再び同じ疑問がわいて来ました。「聖書66巻以上ついているあの外典とは一体なんだろう。」そこで、熱心に祈ると聖霊様が直接教えて下さいました。「聖書は66巻ですべて完結です。そのことは聖書の中の小聖書イザヤ書を学ぶと分かります。」私は主の御声に従いイザヤ書を研究し、以下のことを悟りました。聖書全体は創世記から黙示録まで一連の歴史的流れがある。世界の始まりから終わりそして、その後に来る天国まで。これと同じような一連の歴史的流れを持つ小さな聖書は他にイザヤ書やエゼキエル書や黙示録もそうである。特にイザヤ書は全部で66章あり、それは聖書全体が66巻からなることの小さな縮図のような書である。また、これを覚えるには、掛け算のさんく・にじゅうしち、3×9=27のように39と27を足すと66になり、聖書は旧約39巻、新約27巻、合計66巻しかなく外典は聖書に加えられない、ということでした。ですから、聖書の中の小聖書であるイザヤ書全体を学ぶことによって一連の歴史の流れという路線をおおよそ把握でき、終末論を知る上で重要な役割ある書であることが分かります。今からイザヤ書を章単位で簡単に学び、歴史の流れと終末期に起きることを見てみましょう。イエス・キリストの再臨の時期がいつごろであり、今は歴史中、どの時期であるのか、おおよその路線が見えてきます。

 まず、イザヤ書1章では、堕落した人間に対する愛の神様のなげきのようなメッセージから始まっています。ちょうど、創世記1章で「初めに、神が天と地を創造した。」と始まり、アダム以降続いて人間たちが堕落し、主の御心が痛められたことが、別の角度から別の言葉で表現されているように、ここも「天と地」という御言葉から始まります。「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。私の民は悟らない。ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。…」(イザヤ書1:2−4)善悪の木の実を食し、罪を犯して霊的、道徳的に無感覚となり、堕落してサタンに支配された全人類に対する、はちきれんばかりの神様の愛と哀れみとなげきのような訴えはイザヤ書5章に至るまで延々とつづられています。

「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」(イザヤ書5:20)

しかし、6章に入ると、そこに希望の光が見えてきます。ちょうど、堕落した直後のアダムに対しても、やがて来られる「女の子孫」(処女マリヤから生まれるキリスト)(創世紀3:15)の出現預言や「皮の衣」(キリストの完全で朽ちない義の衣)(創世紀3:21)により、人類救済の希望の光イエス・キリストを啓示されたようにです。「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。」ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)これは直接的にはイザヤ自身の召命ですが、天上では同時並行的にイエス様が自発的な犠牲愛をもって立ち上がられ、父なる神様から、この乱れた世界に天国の宣教師として遣わされたのです。

7章に入ると、神様の御子が世界に遣わされるその具体的な手段として受肉されることが預言されました。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。」(イザヤ書7:14、15)こうしてイエス様は処女マリヤから人間の罪を一切受けずに産まれて世界に来られました。

8章では、インマヌエルなる神様が共におられるイエス様の宣教が全世界的規模であることが予告されています。「それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国いっぱいに広がる。」(イザヤ書8:7、8)

9章では、いよいよイエス様の公生涯の始まり、ガリラヤからの出発です。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書9:1、2)さらにイエス様の公生涯についてこう預言されています。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9:7)ハレルヤ。

10章では、イエス様が来られた結果なされた、数々の解放のみわざについての預言があります。「その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」(イザヤ書10:27)これは新約でもイエス様が約束された通りです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28)

こうして11章に入ると、イエス様が聖霊様の力を帯びて宣教されることが預言されています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ書11:1、2)イエス様の宣教は40日断食以降まず聖霊様に満たされてから始まり、すべては御霊とみ力の顕著な現れでした。(マタイ12:28、ルカ4:18)

12章では、救い主イエス様の働きを喜び称える民衆の声が書かれており、主こそ偉大な賛美と栄光を受けるにふさわしい聖なるお方です。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」(イザヤ書12:2)

13章に入るとイエス様が民衆の中から12弟子を選ばれ、他に70人も選ばれ、彼らを通して宣教が拡大されたことを預言するかのようです。「わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。」(イザヤ書13:3)

そして14章は、弟子たちの福音宣教が開始すると霊の世界でサタンがいなずまのように天から落ちるのをイエス様がご覧になられた日のようです。「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。」(イザヤ書14:12)

このようにイエス様の来られる700年も前に啓示されたイザヤ書は一連の歴史的流れをもって、実際にイエス様に成就した出来事をあらかじめ預言しながら書かれています。サタンが地に投げ落とされてから、いよいよ霊の戦いは激しくなります。その代表的なものとしてイエス様はやまいの霊と戦って人々をいやし(イザヤ書19:22)、律法主義に凝り固まったパリサイ人、サドカイ人、祭司や律法学者たちから攻撃を受け(イザヤ書28:9、10)、よみの勢力の代表、死とも戦われ(イザヤ書28:14−19)、偶像とその背後の悪霊と戦われ、これを追放されました。「あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶさた鋳物の像を汚し、汚れた者としてそれをまき散らし、これに「出て行け。」と言うであろう。」(イザヤ書30:22)、霊の戦いが激戦化するにつれて正体が現われたかのごとくイザヤ書36章にはラブ・シャケからヒゼキヤへの言葉が霊的にもサタンの声のように挑戦してきます。「ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。」(イザヤ書36:4、5)私たちの戦略も戦力もただイエス様だけを信じて拠り頼み、あざけりののしる天敵サタンに反逆、対抗して、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって神様と人々を愛することです。

36章から49章までも私たちへのさまざまな恵みのメッセージがありますが、一言で言えばこうなります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ書43:4)

48章では、愛する者からの裏切りイスカリオテ・ユダについて全体的に預言されています。「わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押えて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合と違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ書48:8−10)「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」(イザヤ書48:22)ユダは激しく悩んで、その心には絶えず平安もなかったようです。

50章には、予告通り私たちの代わりとされた人なる犠牲のメシア・イエス様の受難の始まりです。「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(イザヤ書50:6)イエス様の受難には背中のむち打ち以外、御顔の腫れ上がるひげ抜き、侮辱とつばき、こぶしで殴りつけられる壮絶な体験までありました。(イザヤ書50:7)

51章では、ピラトの庭で、私たちの身代わりに繰り返しむち打たれたイエス様の様子が預言されています。「わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らはかつてあなたに、「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。」と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」(イザヤ書51:23)イエス様の背中は、地面のように、歩道のように、ずたずたに傷つけられて引き裂かれたのです。

52章。「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」(イザヤ書52:14)十字架に高く上げられた神様のしもべイエス様の御顔は、打ちのめされて驚くほどに腫れ上がり、その御姿も人間とは思えないほど血にまみれて、醜く、卑しめられていたのです。イエス様は私たちを本当に愛しておられるから、身代わりとなられたのです。私とあなたのためにです。

53章。イエス・キリストの十字架について最もよく知られている預言です。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書53:3)「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。」(イザヤ書53:9)克明な十字架の死に至るまでの預言に加えて、ここには死後の埋葬も預言されていました。イエス様の納められた墓は元々、政治家として金持ちの議員ヨセフ用に準備された新しい一等地の岩をくりぬいて造られたほら穴の墓地でした。(マタイ27:57−60)その入り口の扉となる封印石は通常、直径1・6mですが、イエス様のものは直径4mもある大きなもので、それに見合った広さの内部構造でした。イエス様はそのような意味から他の金持ちたちの眠る一等墓地にて「彼は富む者とともに葬られた。」のです。しかし、すべて悲しみある所には希望もあります。アダムの堕落以降すぐにメシヤ預言もあったように、この章における希望は、末長い子孫なる私たちクリスチャンの出現についての預言です。(イザヤ書53:10)

54章は、すべての悲劇的状景と対比する正反対の祝福についての約束です。子を産まない不妊の女が多くの子どもを得ること。(イザヤ書54:1)、夫に捨てられた、心に悲しみのある女が再びあわれまれ、贖われること。(イザヤ書54:2−8)、ノアの大洪水の悲劇の後、再び平和の契約が結ばれたこと。(イザヤ書54:9−10)、苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女が再び祝福され、大いに富んで繁栄すること。(イザヤ書54:11−17)。これら54章すべての出来事はイエス・キリストの十字架の死という悲劇的状景と対比される、その正反対の祝福なる栄光の復活について暗示した預言的希望のメッセージなのです。ハレルヤ。イエス・キリストはすべての悲劇的な病と罪と死とよみと悪魔の頭を打ち砕いて3日目に死人のうちよりよみがえられました。

55章には、イエス様の復活から始まった和解の新時代の到来です。今、イエス様は御自身の復活により、私たちすべての人々を無条件に恵みで招いておられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。…」(イザヤ書55:1)、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(イザヤ書55:3)、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ書55:6)

56章は、私たちへの招きに答えて出て行く場、教会についてのメッセージです。イエス様の復活以降、教会時代が始まったからです。「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」(イザヤ書56:7、8)

ここには祈りの家なる教会の姿とさらに集められるリバイバルの約束がともなっています。しかし、この章にはさばきが神の家から始まるように牧会者への警告も含んでいます。(イザヤ書56:11)

 57章。教会時代が始まった2000年前から今日まで共通の課題、霊の戦いである偶像問題についての警告です。イザヤ書57:4には、呪いと悪霊のきずなある人が「口を大きく開いて、舌を出す」とありますが、英語訳では「スティックのように舌を出す」となっており、悪霊の強い力が舌に入ってはいけません。(エレミヤ書9:8、詩篇57:4)イザヤ書57:5には、偶像崇拝者がいけにえに子どもをほふり、イザヤ書57:8では、偶像とその寝床を愛して、「その象徴物を見た。」と書かれています。文字通りの偶像への警戒に加えて肉的な姦淫も要注意です。イスラエルの高き所にて、子どもがいけにえとしてほふられ、偶像に捧げられていた歴史のように(エゼキエル書20:29−31)、今日も高き所なる高い教養と収入を持つ医者のいる病院では、多くの子どもがほふられています。イスラエルでは年間6万人、日本では年間500万人も堕胎されている現状です。何よりも性的罪悪の衝動と誘惑になる、「その象徴物」なる淫乱的要素を持つ映像も本もすべてその類の物は見ないで聖さを保ちましょう。それは神様が聖なるお方だから(イザヤ書57:15)、私たちも聖となるべきです。ここに罪に打ち勝とうと奮闘努力する聖徒へのいやしの約束があります。「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。」(イザヤ書57:18−19)

 58章では、教会時代の重要素である身を聖別して、断食することを呼びかけ、その心構えについて書かれ(イザヤ書58:1−12)、イザヤ書58:13以降には、教会時代にふさわしく主日礼拝を守ることから来る祝福も書かれています。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。」(イザヤ書58:13、14)

 59章。ここでは、教会時代における悔い改めの重要性と(イザヤ書59:1、2)、とりなし祈りの重要性について教えています(イザヤ書59:16)。教会から徹底した悔い改めの運動と祈りの運動が満ちる土台の中で次第に終末リバイバルの音が聞こえ、聖なる恐れと共に聖霊様の風が吹いて来ます。「そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」(イザヤ書59:19、20)ハレルヤ。今の日本の霊的状態は、大体この辺に来ていると思われます。今はイザヤ書59章から60章への歴史的転換期です。先に御言葉にあげられた教会時代に主が要求されている55章から59章までの一つ一つの課題をクリアーして祈りこめば、この地、日の上る国、日本にも必ず60章のリバイバルの栄光が訪れます。

 60章。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」(イザヤ書60:1)「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。」(イザヤ書60:4)リバイバルと共に来るその祝福には、家族の救いも、精神的な祝福も(イザヤ書60:5)、物質的な祝福も(イザヤ書60:5−7)含まれており、イザヤ書60:7では「…わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」と教会が祝福されます。すべての迫害者に対する勝利もあります。(イザヤ書60:14−16)

 61章でも、リバイバルは前進し続けます。「神である主の霊が、私の上にある。…」(イザヤ書61:1)主の恵みの年は聖霊様の働きです。「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」(イザヤ書61:4)この復興、一新こそリバイバルであり、聖霊様の2倍の祝福運動も起きます。(イザヤ書61:7)

62章。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」(イザヤ書62:1)終末のリバイバルが起きると大胆に宣教を休まず継続して燃え続けましょう。その理由は宣教こそイエス様の至上命令、最後の大収穫で、異邦人の完成の時、再臨への備えだからです。「エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。」(イザヤ書62:6)そしてリバイバルと同時にそれは世の終わり、イエス様空中再臨への秒読み段階であることを知らなければなりません。日本は特に最後にリバイバルする国の一つですから、まさにリバイバルの訪れイコール異邦人の完成の時(世の終わり)である自覚が必要です。

「見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。「見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。」と」(イザヤ書62:11)ここに預言された「あなたの救い」という御言葉の「救い」とはヘブル語の「エシュア」であり、イエスのことです。(ハバクク書3:13)あなたのイエス、私のイエスはもう身近です。

 63章。「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」(イザヤ書63:1)63章はついに来られたイエス様の一度目、空中再臨です。その日、イエス様は聖徒たちを空中の御許に引き寄せて大胆に祝福して下さいます。「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。」(イザヤ書63:8)しかし、地上に残された用意のできていなかった聖徒たちとユダヤ人たちの心境はイザヤ書63:11−19となります。

 64章は、イエス様が2度目に聖徒たちと共に降りて来られる地上再臨についての預言です。「ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。」(イザヤ書64:1−3)その日、イエス様とすべての聖徒たちはオリーブ山へ地上再臨し、山が揺れ動き真っ二つに裂けるのを目の当たりにします。

 65章には、地上に残されて7年患難期を体験する不信者に対する審判が預言されています。「見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。」と主は仰せられる。」(イザヤ書65:6、7)ここに3度出て来た「報復」という御言葉は、黙示録19:2にも「血の報復」という御言葉で並行して記されており、いずれも7年患難期における審判の宣告です。さらに(イザヤ書65章13−16)では、具体的にこのことが、空中に上げられた聖徒たちと地上に残された不信者たちをはっきりと比較して書かれています。「それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。」(イザヤ書65:13、14)ここに出て来る私たち聖徒の体験「食べる、飲む、喜ぶ、心の楽しみによって喜び歌う。」等はすべて宴会で使う用語であり、空中婚宴のことを預言的に指し示しています。7年空中婚宴も7年地上患難もないと説く人もありますが、聖書ではこのようにはっきり空中で主と共に披露宴する幸いなしもべたちと、地上に残されて悪魔と共に患難を受ける不幸な罪人たちとを対比して書いています。さらに黙示録19:7−9にも、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。」とあり、ここにもはっきり「婚姻」(7節)という御言葉と「婚宴」(9節)という御言葉の2種類があり、イスラエルでは7日間の盛大な婚宴を花婿と花嫁が共にお祝いしてから正式な夫婦として認められる婚姻を結ぶように(士師記14:17)、用意できたキリストの花嫁である聖徒たちは7年間の空中婚宴を共にお祝いしてから、その後、正式な夫婦として認められる婚姻に入ります。こうしてキリストの花嫁として正式に婚姻を結んだ聖徒たちは、1000年間の新婚旅行に旅立ちます。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。」(イザヤ書65:17、18)婚姻に続く千年王国の栄光は、イザヤ書65:17から最後の25節まで明確に記録されています。

 いよいよ最後の66章。ちょうど聖書66巻の最後に天国についての記録、黙示録があるように、イザヤ書最後の66章もまた、天国についての記録です。「だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。」(イザヤ書66:8)ここにたった一度の陣痛だけですぐに産まれ出た奇跡的な国土について預言されています。一瞬にして生じる国とは、一体どのようにして出現できるのでしょうか?それはすでに完成された天国本体のエルサレムのことであり、これが一瞬にして生まれるように、すでに完成され整えられた姿で天から直接下れば実現可能となります。ハレルヤ。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録21:1、2)ですから、私たちは感謝に満ちて古い地球の千年王国の楽園を離れて、もっと優れた天のエルサレムという天国本体に入れるのです。「エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。」(イザヤ書66:10、11)ここに「彼女」と呼ばれる天のエルサレムに入った聖徒たちは、母親から受けるように天国から可愛がられ、慰められ、心喜び、健康に生きられます。(イザヤ書66:12−14)やがてイザヤ書66:15−17節では、千年王国最後の時、一度解き放たれたサタンとその従者たちに対する最後の戦いが起き、イエス様は立ち上がられ、すべての悪を断ち滅ぼされて完全勝利されます。そして、白い御座の審判後、天国における聖徒たちの報いについて書かれています。「わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。」(イザヤ書66:21)、イザヤ書66:22、23節では、天国の栄光について、イザヤ書66:24では、滅びた人々の火の池における「第二の死」(黙示録20:13−15)について預言され、イザヤ書全章は幕を閉じます。これで、おおよその終末期への歴史的流れが把握できたと思います。聖書という啓示の御言葉を与えて下さったすばらしい父なる神様、仲介者で救い主となられたイエス様、解き明かして下さった助け主、聖霊様。ほめたたえます。ハレルヤ。

「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきわれる。」(イザヤ書66:22−24)