地図part1


 part1:エデンの園をもう一度

part2:「エデン大移動」

part3:「エデンの空」

part4:「エデンの地」

part5:「エデンの主人

            エデンの園をもう一度!

 エデンの陸、海、空、驚天動地の福音です。聖書と照らし合わせて注意深く研究考察すれば必ず神様の完成された人類救済計画をさらに深く正確に理解でき、神様に栄光をお返しできることと信じます。

        「エデンの園」

 自然には人をひきつけ、ストレスを除き、心に安らぎを与えるすばらしい魅力があります。私は教会では講壇に美しい花を整え、雰囲気と空気を良くする植物を増やしました。そして週に一日は休日に定め、なるべく外に出て自然を求めて自由に遊ぶように心がけています。六日間、牧会で右回りになった頭の回転を思いっきり左回りに戻す休息の一日は、その後の働きの能率を高めるとても有意義な時間であり、神様の定められた一つの法則です。そこで休日に趣味の小さな野菜畑を作ってみました。小さな畑を借りて掘り下げ、山から肥えた土を運び入れ、豆腐屋からもらってきたおからや魚などの残飯を肥料として土を作りました。ミミズをたくさん放ち、土地を耕す使命を与え、カマキリとトカゲとカエルも捕まえてきては放ち、畑の野菜に付く害虫駆除の使命を与えました。こうして三十種類の野菜を新鮮有機無農薬野菜として育て上げ、花やいちじくや葡萄、さくらんぼの木等も育てました。しかし、後にはトカゲがカエルを食べてしまったのか、姿が見られず、ついにはカマキリも飛び去り、トカゲも見えなくなってしまいました。代わりに小さな汚い害虫がどこからともなくわき出て来て、その中で互いに食物連鎖を成し、肥料を分解したり、大きい虫が小さい虫を食べたりしながら、一つのバランスある小世界を形成し、本来の自然に近くなってきました。けれどもアダムゆえ呪いを受けた現在の土地では呪いの産物、害虫が緑の野菜をも食い尽くしてしまい、全く100パーセント有機無農薬野菜作りは不可能であることを思い知らされました。

 また、私は子どもの時から生き物が大好きでいろいろな生き物を捕まえて来ては育てていました。ゴムボートで海の深みに漕ぎ出しては釣りをして、浜ではうに、なまこ、各種の貝類、かに等を捕らえ、山ではくわがた、ヘビ、トカゲ、サンショウオ、里ではカエルからザリガニに小魚、イモリ、キリギリス、店では買ってきたカメ、ワニ、にわとり、うさぎ、鳥、ハムスター、犬・・・いろいろと育てては繁殖させて楽しんでいました。大人になった今は、只一つ、九十センチの水槽をオアシスに仕立てたくさんの水草を植込み、種々の美しい熱帯魚を泳がせ、目で見て楽しむ小さな楽園を作りました。牧会が忙しくなってきたためあまり深くは没頭しませんが、聖書中、本格的に森や池まで作り、自然環境を満喫した人にソロモン王がいます。(伝2−4〜10)。

 私はこれら一切の体験を経て、今一つの悟りがあります。人間には霊においては、神様を絶えず慕い求める飢え渇きの心があり、肉的環境では、あの失われたオアシス、エデンの園を慕い求める欲求が本能的にあるということです。私の心の願いもすべてエデンの園の中にあるということです。では、エデンの園とは一体どんな環境だったのでしょうか。

 第一に創世記によるとエデンには園を歩き回られる主なる神様が共におられ、霊的に祝福された土地でした。いつでも主に話し掛ければすぐに祈りの答えを受けられる環境です。

 第二にエデンの園はおいしく実を結ぶ豊かな各種の木々と美しく香りを放つ花々が咲き乱れ、木の実を取って食することにより健康に恵まれ、特に命の木の実を食したならば永遠に生きることも出来た最良の肥えた一等地でした。

 第三にエデンの園には当時、草食性であった人間にとってユニークな友として動物たちや鳥、昆虫、魚等満ち溢れ平和と命に満ちた楽園であり、四つの川が園を潤す目的で流れ出て、湿潤でそこには金、銀、あらゆる宝石があり、物質的にも何一つ乏しいことのない完全な土地でした。(創世記1−29、2−10〜14、エゼキエル28−12、13)

 第四にエデンの園には楽しみ、感謝、賛美、歌声があり、精神的にも恵まれていました。

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(イザヤ書51−3)

私たちが今日、教会を賛美で満たそうといろいろな楽器を用いて練習することも結局、神様を賛美礼拝する失われたエデンに響く歌声を、もう一度回復しようとしている努力です。

 第五にエデンの園の優れた環境の只中でアダム自身が祝福されていました。彼は、神様の創造物を毎日楽しんで感謝と信仰で生きることが許され、心が幸福感に満たされていたのです。エデンの園は寒すぎることも、熱すぎることもなく気候が温暖、快適でアダムは服を着ない裸でも生活できた程優れていたのです。今日のような冷暖房も空調設備も一切必要無く、裸足で歩くアダムを害するイバラやアザミのようなトゲもない人にやさしい地球だったのです。

 創世記2−19によると神様はアダムに対してふさわしい助け手なる女、エバを創造されました。その時エバは始めの産まれつきから結婚適齢期の女性として造られ、赤ちゃんエバ、少女エバという成長過程における一切の時間と空間のプロセスを超越して創造されたことが次の御言葉から解ります。

「これこそ今や、私の骨からの骨。肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男からとられたのだから。」(創世記2−23)

エバの美しさに魅了され、これを賛美して喜ぶアダムの言葉は決して子どもの言葉ではなく、子どもに対する言葉でもなく、まさにアダムの心を満足させ、捕らえるに十分な大人への愛の告白です。主は今日でもご自身の愛する者のためには、時間と空間のプロセスも飛び越えて、必要なものを完成された状態で眠っている間にも備えて与えて下さる善いお方なのです。(詩篇127−2)。

アダムはさらにこの時、初対面のエバを見るや否や、そこで即興で最もふさわしく表現力豊かな言葉をもって女、エバをほめています。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名づけよう。」

なんと詩的で文学的に優れた愛の表現法でしょうか。一般の凡人には思いもつかないような絶賛する言葉です。もし、これが私だったらこう言うかもしれません。「うわー。美人だな。あなたは私にぴったりですね。仲良くしましょう。」

この程度のほめ言葉が限界でしょう。ですから、アダムの内には今日見られる芸術家や文学者、優れた詩人の原点が見えるのです。今日も主と共にいる人はアダムのように感受性もだんだん豊かになり、研ぎ澄まされた情緒と表現力を持つようになれます。こうして、夫婦は霊、魂、肉一つに調和し、互いに愛し合う完全な存在だったのです。しかし、どうして今日の激しい離婚率にみられるような夫婦間の愛が冷めた時代となったのでしょうか。それはサタンに誘惑され、人間に与えられた尊厳と自由意志を乱用したアダムとエバが善悪の木の実に手をつけ、これを取って食べたこの堕落のためです。後に預言者ホセアは善悪の木の実を取って食べたアダムの行為をこう言いました。

「ところが、彼らは、アダムのように契約を破り、その時、わたしを裏切った。」(ホセア書6−7)。

すなわち契約破りであり、神様への裏切り行為と評価したのです。

 また、ヨブはこう言いました。「あるいは、私がアダムのように自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。」(ヨブき31−33)。ヨブはこれをアダムのそむきの罪、アダムの咎と指摘したのです。

 以前、私もアダムについて考えていたことがあります。私の場合、聖書を研究した後アダムへの評価は怒りといきどおりでした。「アダムが罪を犯さなければ、人類は地獄に行かず、平和でよかったのに。アダムがすべて悪い。」

本当に心の底から人類を代表するような誤ったいきどおりが生じて、しばらくの間、私はアダムを憎んでいました。そんなある日、ルカ伝3−38を読んでいると今まで無味乾燥したように思えていたこの系図の最後に、この御言葉を発見しました。「…エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。」

私はこの御言葉を読むや否や目からはりとうろこが取れたようなレイマとなって心に突き刺され、悟りがきました。

「聖書では、神様がこの罪人アダムを「神の子」と言って赦して、受け入れている。神様が受け入れているのに赦さない私は誰だ?。」私はそこで悟って悔い改めました。「主よ。アダムを憎んでいた罪を悔い改めます。私も同じ罪赦されたものです。きっと私もエデンの園にいたら同じく罪を犯していたことでしょう。いや、それ以上かもしれません。イエス‐キリストの御名でアダムを赦します。アーメン。」私がこう祈り終わると即座に心は晴れやかになりました。御言葉の力に感謝します。創世記3−17では罪犯した直後のアダムへ審判の御言葉が宣告されています。

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。」実に、この時から呪いを受けた土地は地力を失い人を害する蚊、あぶ、はえ、のみ、しらみ、各種の疫病菌、新鮮有機無農薬野菜をむしばむ、いろいろな汚れた害虫等が出て来たのです。ですから害虫は呪いの産物です。

 さらにこの呪いの力は全世界に及び、動物界においても弱肉強食の新秩序をもたらし、人間もまた「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」(創一・二九)と定められていた本来の草食性から助け手だったお友達の動物を殺して食べる肉食性の存在へと激変したのでした。もちろん今は祝福の源イエス様が宣言された通り(マルコ伝7−19)すべての食物は聖く、毒でない限り、動物も鳥も植物も食べてよい時代です。創世記3−24では、「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るためにエデンの園の東にケルビムと輪をえがいてまわる炎の剣をおかれた。」とあり、結局、罪を犯し呪いを受けたアダムとエバはみじめにもエデンの園を追い出され、霊・魂・肉すべての祝福を一夜にして失ってしまいました。今、すべての人々の心の願いは、変わらずこのエデンの園の中に元々あった魂が恵まれ、すべての事に恵まれ、健康であることに要約されます。しかし、追放されたエデンの祝福の中へもう一度入ろうとする人々の幸福追求の手段にイエス様の血潮信仰の力で入ろうとせず、人間の肉の力で入ろうとするところに現代人の諸問題が生じています。人間の作った宗教や倫理、道徳、教育、哲学等ではエデンの祝福には決して入れず、むしろエデンの東にケルビムと輪をえがいてまわっている炎の剣の害を受け、火傷と傷を受けるばかりです。エデン追放後の旧約時代も人々は続いて失われたエデンの幸福を追求しています。そこで神様から示された天国の模型、至聖所がありました。

「あの中に入れば主と出会い、あの失われたエデンの祝福をもう一度取り戻せるにちがいない。」と誰もが期待したことでしょう。しかし、現実は厳しく、その入り口には大きく、ぶ厚い仕切りの垂れ幕があり、そこにもあのエデン追放以降現われた炎の剣を手に持つ御使いケルビムの刺しゅうがエデンを守る番兵のごとくに巧みにおりあわされ封印されていたのです。(出エジプト記26−31)しかも大祭司だけが一年に一度入れるだけでした。

 しかし時代は変わり、時が移りすぎて新約時代。イエス様が十字架上ただ一度ご自身の肉体という垂れ幕を裂いて血潮を流し、死なれた時、神殿の垂れ幕も超自然的に二つに引き裂かれました。そのためケルビムの封印も一緒に破れて取り除かれ、真の新しい生けるエデンの道が再開したのです。ハレルヤ。

今は誰でもイエス様の血潮を携えて御許に行けば、真の至聖所、天国に入れ、エデンの祝福に入れます。エデン入場は現実に可能です。エデンの園とは遠く「ほら、そこにある。あそこにある。」というものではなく、私たちの只中、心の中から実現します。マラキ書3−12では収入の十分の一を神様のものとして認め、善悪の木の実のように取って食べないで主にお返しすることにより、昔も今も、このエデン同様の祝福が臨むと契約されています。(ルカ伝11−42)。

マラキ書の祝福は第一に、天の窓が開かれあふれるばかりの霊的祝福であり、第二に、イナゴのような悪霊がしかられて追放され、土地の産物、畑の葡萄の木が豊作になる物資的祝福であり、第三に、捧げたその人自身がしあわせものとなり、喜びの地となるという精神的、肉体的健康の祝福が訪れます。ここで神様の約束「あなたがたが喜びの地となる。」(マラキ書3−12)に用いられた「喜びの地」とは、原語が「パラディソス」であり、それは「喜びの園・エデン」とも訳せます。ハレルヤ。十一献金を通して心の中にエデンの園が誕生するのです。その心には、園の主・聖霊様が歩き回られ、楽しみと喜び、感謝と歌声があるのです。(イザヤ書51−3)。

part2へ