天気


 

         うそのような本当の?話、宇宙編

「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、「にわか雨が来るぞ。」と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、「暑い日になるぞ。」と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいことかを判断しないのですか。」(ルカ12:54−57)

天気予報がおおよそ的中するように、今の時代は霊的で預言的な雲行きの中、未来の動きを聖書から観測して予報できる時代です。

黙示録14:6「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」約2000年も前に使徒ヨハネの見た幻です。これは世の終わりに「中天」を飛ぶ御使いが忙しく世界的な規模でリバイバルを起こすという希望の預言です。ところでここでいう「中天」とはいったい何処でしょうか?第二コリント12:2−4では使徒パウロが「第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存知です。パラダイスに引き上げられた」と証言しますが、仮に第一の天が私たちの見上げる空だとすれば、第二の天はその上にある宇宙であり、第三の天とはさらにその上にあるもっともいと高き霊的な次元にある天国のことではないでしょうか。そう考えると「中天」を飛ぶ御使いのいた領域とは宇宙ではないでしょうか。三次元の空間には必ず上中下がありますが、確かに天丼を頼むにしても中天丼がメニューにあるならば、上天丼や並(下)天丼もあることを意味し、御使いのいた「中天」と呼ばれる領域があることは必ずその上下の領域である「上天」である天国と「下天」である地上の空の存在をあらわしているはずです。だから「中天」は中間の宇宙でしょう。今の時代は人工衛星が宇宙の領域を占めており地上からの電波を受けて地球の反対側まで電波を飛ばし世界中で同刻に起きた出来事をクリアーに伝える衛星放送が普及しました。これをうまく利用して永遠の福音を伝えればまさに黙示録の預言通りに世界中津々浦々リバイバルできるでしょう。しかし、このような優れた放送システムも悪用されれば、悲劇ともなりえます。

「また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれを乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちのその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。」ここで言う太陽から御使いが大声で叫んで聞こえる範囲内に位置する中天を飛ぶすべての鳥とは太陽と同じ宇宙空間を飛びかう各国の人工衛星ではないでしょうか。今の時代の戦争は情報戦です。我先に情報を握ったものが勝者となります。戦争でも敵の戦略情報をいち早く察知してすばやい対応を取れれば支配者になれます。もし今、戦争が起きれば各国を監視している敵国の「中天」を飛ぶ人工衛星をいち早く破壊すれば戦いやすくなります。終極的には破壊用レーザービームを搭載した人工衛星対人工衛星というようなまさに宇宙戦争が現実化しつつあります。さらにもし、このような破壊用レーザービームの焦点が地上に住む人間に向けられれば、「王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれを乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉」に対する攻撃も可能となります。もっとも聖書のこの箇所は直接的には文字通り鳥を指しますが、それ以上の暗示的意味を持たないことを願います。すでに衛星からの照射実験は成功したという噂も聞きますが、今、人工衛星からは地上における小さな動きまではっきり観察できます。額に刻印されたバーコードさえ読み取れるでしょうか。冗談ですが、温泉の露天風呂に入るときには宇宙ステーションから望遠鏡をのぞく宇宙飛行士の変なおじさんにも要注意です。地上を支配するのに宇宙から。そんな奇妙な時代が近まっているようです。

 

             イスラエルの全家

ここからはもうひとつの霊的な雲行きである将来起こる復活について、私たちが将来いただける栄光輝く復活の体について、その日が一体いつであるかについて預言的に考えて見ましょう。

う。エゼキエル三十七章では、人類の歴史の中を、思いのままに吹きめぐる聖霊様の四方からの風について預言されております。エゼキエルが主の霊によって連れ出され、谷間の真中に置かれました。そこには多くのひどくひからびた人間の骨が落ちていました。しかし、ここで主の命令を受けたエゼキエルは、大胆にこの絶望的死に満ちた暗い環境に、創造的な言葉を預言しました。

「…ひからびた骨よ!。主の言葉を聞け!。おまえたちは生き返る!。」(エゼ三七・四、五)

 すると大きなとどろきの音が鳴り、骨と骨が互いにつながり、更にその上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおったのです。しかし、その中には息はなく、死体のままでした。そこで主の命令を受けたエゼキエルは、この死体に対して再度預言しました。

「息よ!。四方から吹いてこい!。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ!。」

その時、聖霊様の息吹が四方から吹きつけて彼らの中に入り、生き返って自分たちの足で立ち上がったのです。非常に多くの集団です。彼らはイスラエルの全家でした。(エゼ三七・一一)。ハレルヤ。ここに大切な教訓が啓示されています。一つは、神様の奇跡によってこれらの死体が骨をつなぎ、筋がつき、肉が生じ、皮膚がすっかりおおっていても、そこに息がなければ、依然死んだ者として無力であるように、キリストの御体なる教会も、体制を整え、組織を強化した後は最も重要な四方から吹いてくる聖霊様の息吹が、絶対必要であることを教えています。世にあるすべての教会と、霊的に死んでいるすべての人々の所へ聖霊様の風が吹いてくるように祈りましょう。命の「息」はヘブル語で(ネーシャイーム)「息吹、霊、風」の意味があります。聖霊様の息吹、聖霊様の風が吹きつける時、死者がよみがえり、いのちに満ちます。

 エゼキエルの幻からもう一つ教訓があります。将来、私たちもまた、復活の栄光にあずかり、たとえ死んでも再び生き返ることができるという希望の約束です。

「墓の中にいる者がみな、子(イエス様)の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえって裁きを受けるのです。」(ヨハネ五・二八、二九)

では、20世紀から21世紀にかけて最近、聖書の預言が見事に成就したイスラエル国家の歴史的な数々の出来事を中心に、私たちの復活の栄光の日がいつごろであるかについて御一緒にエゼキエルの預言をひもときましょう。ここでは「イスラエルの全家」と呼ばれた多くのユダヤ人の殺害されて乾いた骨々が預言に従って次第に回復し、ついには本来の人間らしい姿にまでなって、いのちに満ちる一連のよみがえりの過程を6つの段階に分けて詳細に研究します。ここでも詳細に人体人骨に骨から筋が生じ、筋肉が生じ、皮が…という6段階の説明の絵を書こうと思いましたが、あまりにも一見しておぞましい絵なので止めました。イスラエルのユダヤ人の回復の歴史を研究することは大変意義深く、彼らには神様から選民として世界の終末の時を正確に告げる時計の針のような民族的使命が与えられています。

  第一段階は言葉の回復です。これらの骨から復活した人々は、イスラエルの全家を現わしています。(エゼ三七・一一)。イスラエル国家は確かに一度はAD70年に滅亡し、谷間に散らされた干からびた骨のように全世界に散らされた国土を持たない民族となって絶望状態にありました。その原因は、AD32年4月11日、イスラエルのユダヤ人たちが神様のひとり子イエス・キリストを拒み、十字架に掛けて殺した際、一致団結して不信仰告白したその否定的で破壊的な呪いの言葉に端を発します。「…しかし、彼ら(ユダヤ人)はますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けた。」(マタイ伝27:23)

「すると、民衆(ユダヤ人)はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ伝27:25)彼らユダヤ人たちは救い主を拒んで、無実な血を流す責任を自らの責任として認める告白をしました。その後です。やがて38年経っても一向に悔い改めなかったユダヤ人に対してAD70年、ついに血の責任を問われるような神様からの審判の道具であるローマの大軍に町を包囲されたイスラエル国家は、悲劇的な陥落を体験しました。38年前「私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と熱狂して軽はずみに不信仰告白した通りに、それが現実のものとなり、その日、ユダヤ民族は厳しい審判を受け、その「子どもたち」である子孫たちも全世界に散らされ、歴史的に厳しい生活を余儀なくされたのです。申命記28:49では、このようなもともとは特別に愛された選民であるはずのイスラエルが神様に仕えず、御言葉に背いて歩むなら「主は、遠くの地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。…」と事前に警告の伴った預言がなされていた通りの審判が彼らに実現してしまい、事実、当時のローマ兵の手にひるがえる軍旗は文字通り「わし」のマーク入りであり、ローマ軍は投石器という武器を用いて天然の要塞でもあるイスラエルの町を取り巻いて城壁内に上から「わし」位の大きさもある石を次々と投げ入れ、城内の建造物を徹底破壊し、そこに住むユダヤ人にとってそれは、まるで「わし」が空中から地上の獲物にまっすぐ襲いかかるかのような、空中から地上にまっすぐ飛んで襲ってくる預言通りの悲劇でした。しかしながら、そのような審判の只中、ユダヤ人の中にも悔い改めて救われた初代教会のクリスチャンたちも多くおり、彼らだけは、鳥の中でも攻撃的で最強の鳥である「わし」のように、当時世界で攻撃的で最強の軍隊ローマ兵の投石による破壊を奇跡的にまぬがれ、生き延びることができたといいます。当時の記録によると、ローマ軍の将軍ティトスの命令による断続的な投石攻撃が続く中、一瞬、なぜか攻撃の手が休められた時間がありました。その時です。かつてイエス様によって語られた御言葉「エルサレムが軍隊に囲まれているのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。」(ルカ伝21:20−22)を覚えていたユダヤ人クリスチャンたちが、いっせいに包囲された都エルサレム城内から城外へ逃げ出し、彼らは近くの山へ逃げ込みました。それから再び城門が閉じられた後、突然ローマ軍による最後の総攻撃が雨嵐のように再開しエルサレムは完全に陥落し、そこに残っていたユダヤ人に対する無差別、大量虐殺が行なわれました。しかし、一瞬のすきにイエス様の御言葉を信じて山へ逃げ延びたユダヤ人クリスチャンたちはただの一人も死ぬことがなかったのです。これは、世界の終末に全地が裁かれる「報復の日」にも、イエス様の御言葉を信じたクリスチャンたちが山より高い空中へ引き上げられ審判をまぬがれるという将来の模型でもあります。こうして、国家を失い、全世界に散らされたユダヤ人のその後の長く辛い歴史が始まりました。たまたま「報復の日」に都にいなかったユダヤ人、いなかにいたユダヤ人、もともと外国に移り住んでいたユダヤ人、そして、奇跡的に都から山へ逃れ出たユダヤ人クリスチャンたち。彼らの歴史は、イエス様の御言葉に従う時いつも祝福され、背く時にはいつも呪いを身に招き、世界中で迫害、虐殺、追放の歴史を繰り返してきたのです。このような流れの中で約1900年もたった20世紀に入ると、聖書のもう一つの預言成就、イスラエル国家再建という歴史的出来事に全世界が圧倒されました。聖書の預言通り1900年もの空白の後、突然復活して再建された奇蹟の国家。それはエゼキエルが谷間で見た多くの殺された死体が突然復活したような驚くべき出来事です。歴史家トインビーは歴史に現われた22の文明の中で、7つの文明以外はすべて滅びてしまったと分析しますが、歴史中、エジプト、ローマ、ペルシャ、元など強大な帝国が興っては滅びる中、ひとつの小さなユダヤ民族がその純血と宗教と民族性を失わずに1900年間も諸国の間で存続し、やがて昔と同じ地域に国家を再建できたという事例はたぐいまれなることです。その経緯はこのような次第です。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ一・一)

AD70年滅亡したイスラエルは、国家なき民族として世界中に追い散らされ長い歴史の中、当然にして古代ヘブライ語も次第に廃れました。ところが20世紀に入って愛国心の強い言語学者ベン・エリエゼルは、この失われた言語、古代ヘブライ語を独学で必死に学び、見事に復活させ、これをイスラエル再建以前までにユダヤ人の間に広く普及させることに成功したのです。彼はヘブライ語復活第一功労者にふさわしくユダヤ人学校の教師とヘブライ語の雑誌編集を仕事にしながらヘブライ語新聞社設立、ヘブライ語協会組織などを手がけ、「古代現代ヘブライ語辞典」を編さんし、言葉の普及に生涯をささげ、その熱意は家庭で子供にもヘブライ語以外は使わないと決意するほどでした。彼の努力も実り、ついにはヘブライ語普及の運動はイスラエル国家再建前のユダヤ人にとって普遍的共通の願いとなり、その一環としてユダヤ人は国を再建する前にまず、言葉を提供する施設、すなわち大学を創り、その名もヘブライ大学と命名し全ての専門がヘブライ語で教えられ、言葉の普及に大きく貢献させたのです。その中でも初めてのクラスの授業はアインシュタインが行なった相対性理論の講義であり、アインシュタイン自身も初めの数センテンスをヘブライ語で述べました。こうしてよみがえったヘブライ語が上流階級から一般庶民の家庭までユダヤ人社会全般に広く深く浸透していったのです。一度死んだ言葉が再び復活したということは、実に驚くべき出来事ですが、これはまさに荒野で金の子牛を偶像崇拝したイスラエルの民の罪悪のために神様の聖なる御怒りを同様に受けた神の人モーセが十戒の書かれた石の板を投げつけて粉々に砕いた後(出エ三二・一九)、再び主から同じ十戒を受けた(出エ三四・一)ことにも似ており、これは、神様の言葉なるイエス様の十字架の死と復活を象徴する奇跡的出来事でもあったのです。

「はじめにことば」です。人間は生まれると第一に産声という「ことば」をあげて泣くか否かによって、生死が決まります。人間の行動でも、まず「ことば」が頭脳にある言語中枢神経によって体に指令を与えてから活動を始めるものです。国家再建前に「ことば」がまず、普及したように、イスラエルの全家の復活の幻も、第一にエゼキエルの預言した「ことば」から始まったのです。エゼキエルの預言の「ことば」通り、そこに無から有、闇から光、死から命を呼び出す奇跡が始まりました。

 更に特筆すべきことは第一段階の言葉の回復として、1948年度の大発見です。クムランという荒野でベドウィンの羊飼いの少年がいなくなった羊を探し歩いていました。迷える羊は荒野で弱い存在であり、外敵を恐れその姿をしばし洞窟内に隠すことがあります。そこで羊飼いの少年は荒野にある数多い天然洞窟の一つ一つ奥深くに石を投げ込んで探しているとある洞窟にて投石後、なんと羊の鳴き声ではなく、壷の割れる音が帰ってきました。そこで暗闇の奥まで入ってみると、割れた壷の中からたくさんの巻物が出てきたのです。これが今世紀最大の考古学的発見といわれた死海写本六百余典です。このBC三から二世紀に筆写された、最も古い旧約聖書の写本発見により、イエス様以前旧約時代に書かれた十字架の苦難を受けるメシヤに関する預言の御言葉が今日私たちが手にする聖書と正確に同じ内容であり、確かに新約時代に来られたイエス様のことをそのまま昔から預言していたことが考古学的にも立証され、世界中のクリスチャンにとって大きな励ましとなったのです。「はじめにことば」です。主の御言葉が世界中に注目を浴びた、丁度翌年、これに続く旧約聖書の預言成就が再び全世界をしゅんかんさせました。これが第二段階の奇跡です。

 第二段階の回復は、信仰のことばが発せられた後、谷間に散らばっていた骨と骨が動き出して互いにつながり、人の形をもつ骸骨になるという創造的な奇跡が翌年起きました。すなわち、これは1948年5月14日、イギリスが去ったイスラエル民族の独立宣言による国家再建です。聖書的に大変重要な出来事です。この日、これに反対した四千五百万名というアラブ大軍との間に勃発した独立戦争にイスラエルはわずか五十万名でまともな武器もなく戦い、奇跡的に勝利を治め、イスラエルは領土を三十五%拡大し、国家誕生を見事に成し遂げたのです。

 まさに干からびた骨と骨が互いにつながったような神様の介入による奇跡で国家という形が結成されたのです。国家組織という骨組みの完成です。そして、ここにもクリスチャンとして心にとめるべき神様の摂理がありました。デオドール・ヘリツェルという名のユダヤ人ですが、彼は国家再建前、人前で勲章を剥奪され、恥をかかされたうえで投獄され、十年間もの長い刑務所暮らしの後、無罪が立証され晴れて出所させられました。しかし、すでに勇ましかった以前の見る影はなく、すっかりやせ衰えて出所した彼の姿を見た全てのユダヤ人は同胞の同国人として、心が熱く熱く打たれました。テオドール・ヘルツェルは宗教的な人でも、革命家でもありませんでしたが、そこで語りました。「ユダヤ人が国家を持たないから、このように不当に扱われるのです。今からは我々の国家を持っていこう。」ここから国家再建運動の声が大きな叫びとなり、民衆の心を動かす起爆剤となったのでした。初めはユダヤ人の住むべき国土の候補地としてアフリカや満州、南米など数々のアイディアがあげられましたが、全ての計画が打ち砕かれてしまい完全に行き詰まったその時です。ここで用いられたのがユダヤ人のクリスチャンによる提案だったのです。現在イスラエル全体のクリスチャン人口は三%といわれていますが、彼らが神様の摂理の中で重い口を開きました。「ユダヤ人の国はパレスチナに。」こうして、御言葉に従った提案に主御自身が直接働かれ、創造的奇跡のうちに一般民衆にも受け入れられて、再びあの聖書の示す、いにしえの先祖たちが住んでいた約束の地イスラエルに帰り、国家再建を見事に成就することができたのです。この頃の全世界のユダヤ人イスラエル大集合による移住民ラッシュは今でも、旅客機の過去最高搭乗率200%を連日超越する大記録となってギネスブックにも載っております。このようにイスラエル国家再建の現実とは、生きておられる神様が人類の歴史に直接介入された確かな証拠となる輝く栄光でありますが、同時に、この日から数えてまさに終末へ突入する人類史のカウントダウンが今はじまったのです。

 国家組織という骨組みが出来上がると、次に第三段階の回復である人の形をもつ骸骨の上に張りめぐらされた筋がつき始めたのです。1956年9月のスエズ動乱のことです。スエズ運河の国有化問題から戦争が勃発、イスラエルはここでも奇蹟的にアラブ軍に対し優勢勝ちを治めたため、見事に骸骨の上にぐるぐると筋を張りめぐらせることに成功したのです。そのため敗戦したアラブ軍は以前にも増してイスラエルを敵視し、国際的緊張を高め、一方、敵を前にしたイスラエルは体の筋のようにしっかりとはりめぐらされた本格的な監視体制の強化された国家へと急成長したのです。

 こうして人の形をもつ骸骨の上に筋が完全に巻き付くと、次は第四段階の回復に入り、筋の上に肉が生じました。その時、エゼキエルがかいま見た幻はちょうど私たちがむかし理科の実験室や病院等でかいま見たことのある筋肉むき出しの気味悪い人体標本の人形のようでした。しかも、人形ではなく実物が何体も何体も無数に谷間のあちらこちらに赤い筋肉むき出し状態で転がっているではありませんか。エゼキエルが悪酔いしなかったのが、恵みです。主からの人体についての啓示の幻は不思議と凄惨な光景でも、恐れがないものです。筋の上に肉。これは1967年6月の六日間戦争勃発の預言でした。イスラエルはただ一国で二十倍以上のアラブ大軍の攻撃に遭いましたが、ここでも奇跡的勝利を治め、最重要都市である東エルサレムを含む地域を占領・奪還し、今までの四倍領地を拡大したのです。ユダヤ人にとって都エルサレムとは、いにしえより礼拝の中心地であり、体内の強い筋肉である心臓部のように重要な意味を持つ主要都市です。こうしてアブラハムよりの自分たちのものを奪還したイスラエルは、都エルサレムを中心に筋の上に厚い筋肉が生じた筋肉質な体のようにパワフルで躍動的な強国となって完成されていったのです。

 筋肉が生じた後は、もはや誰にも止められません。奪還した東エルサレムにある嘆きの壁での祈りも相して第五段階の回復、筋肉の上を皮膚がすっかりおおい始めたのです。これは1973年10月6日、シリヤとエジプトが攻撃した第四次中東戦争です。米ソの本格的武器援助を受けて戦争し、ここでも逆転勝利により、占領地域を六倍まで拡大したのです。度重なる戦争がイスラエルにとって益となり、皮膚が体をおおいながら、外敵や寒さ、熱さから身を守るように、強国としての国境を築くこととなりました。そして、今、既にこのおおわれた皮膚を更に確かな厚く完全なものにしようとエジプトとの和平条約を成立させ、更に全面的な中東和平が叫ばれている時代なのです。今は歴史的におおわれた皮膚の上に産毛がうっすら生え始めている位の時期であり、これから先、聖書ではロシアの経済が行き詰まったあげく、イラン、エチオピア、リビヤが一つになって、イスラエルの巨大な富を求めて侵攻する第三次世界大戦の勃発を預言しており、ここでもイスラエルが圧勝することになります。(エゼキエル三九・九)そして、この年こそ「終わりの年」(エゼキエル三八・八)(ダニエル二・二八〜四四)でもあり、空中再臨のイエス様の御元に私たち教会が引き上げられ、「異邦人の完成の時」として復活の栄光輝く新しい体を受けるその時なのです。ハレルヤ。空中でキリストと共に七年間の婚宴をもうける私たちと正反対の地上では、七年患難の最後にアジアの国々から二億の軍隊が侵攻する(黙示九・一五、一六)、ハルマゲドンの大戦争も起きますが、この七年患難時代の前半三年半までに最後の第六段階が必ず成就するのです。

    最後の第六段階の回復とは、未来の出来事ですが、完成されたイスラエル国家という体に四方から命の息が激しく吹いてくる祝福の時です。この体はやはり形こそ完成されていても命の息のない死体です。イスラエルのユダヤ人もまた、今はまだ「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」(イザヤ書28:10)と律法的にがんじがらめになって霊的に死んだ状態です。どうしても、聖霊様の四方からの命の息が必要なのです。イスラエル国家の祝福と教会の祝福は密接な相互関係があり、イスラエルの平和のために特別に祈る必要があります。イエス様は散らされている神様の子供たちを集めるためにも十字架に掛けられ血潮を流されたからです。(ヨハネ一一・五二)。終末の今、イスラエル国家に世界中から散らされたユダヤ人が続々と帰国し続けているように、教会も今、世界的にリバイバルが進められ人々が集まって来ています。間もなく、イスラエルがユダヤ人に満たされた頃偉大な変化が起きます。それは私たち教会が世を去り、栄光輝く復活の体をいただいてイエス様との七年間空中婚宴を始めるため、空中では王家の結婚披露宴にふさわしい盛大な賛美があり感謝があり、喜びがあり、真の礼拝者だけが集う礼拝として栄光が満ちあふれます。そのためこれに耐え切れなくなった空中の権威を持つサタンの要塞が破れ、地上に残されたユダヤ人社会にとっても祝福の大きな霊的影響を与え、イスラエル国家は最後の第六段階に入ります。

「…その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。…」(ローマ一一・二五、二六)。

イスラエルに聖霊様の息吹が四方から吹いてきてリバイバルが起き十四万四千人の十二部族が立ち上がるのです。この数は登録された男だけの数であり、総数は遙かに多く、残された不信者の住む終末の全世界を最後に揺さぶり、イエス・キリストと私たちの輝かしい地上再臨の土台を築き上げることになります。ハレルヤ。霊の四方からの息吹はいのちであるリバイバルを起こし、死人を生かすのです。このように御言葉と聖霊様により、時代を眺めると私たちが輝いた栄光の体を受けるイエス様の再臨の日が、いよいよ間近に迫っていることが分かります。

 では近い将来、私たちのいただける約束の復活の体とは一体どんな体でしょうか?聖書の語る復活とは、ただ死人がよみがえるだけでなくて、私たち自体の体も変わります。ちょうど、私たちの復活、それは醜いイモ虫がやがて葉っぱにくっついて、さなぎとなって固まりその後、脱皮して美しい蝶(ちょう)に変身することにも似ています。皮を破って蝶になったあとは以前の醜かったイモ虫の姿が信じられないくらいに美しく変わります。私たちも同様です。今はまだ罪のゆえイモ虫のように、あまり見栄えの良い姿ではなく、むしろ信者も不信者もよく似ていてイモ虫なのか毛虫なのかよく分からない姿です。しかし、ひっくり返せば足の数で将来、美しい蝶になって大空に飛び立つ運命の存在なのか否かが分かります。イモ虫は6本足の昆虫、毛虫ははるかに多くの足があり一生涯、地の表を這い、時が来ても飛べません。私たち自身も、今は弱くて自分が世の人と変わらないように思えるときがあるかもしれません。しかし、本当は大違いなのです。クリスチャンは誰でもやがて時が来れば、空中再臨のイエス様がお迎えに来られて空中に飛び立つ運命の蝶のような美しい生まれ変わりの力をすでに内に持っている復活の栄光の希望ある特別な存在なのです。ハレルヤ。

イエス様はミナのたとえ話で、ある人は十の町の支配権、ある人は五つの町の支配権というように一人一人に対する将来の報いに違いがある事を語られ(ルカ19・17、19)、天国には「最も小さい者」と呼ばれるものも、「偉大な者」と呼ばれるものも存在することを教えて下さいました。(マタイ5・19)。パウロも私たちのいただける約束の復活の体について預言しました。

「天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。」(Tコリント15・40〜42)。 太陽、月、星、すべて宇宙にありますが、すべて輝きの等級が異なるように、その日私たちもすべて「御使いのよう」であり、「復活の子」として「神の子ども」らしく天上にいますが(ルカ二20・36)、復活の栄光の度合いが異なります。太陽のように大きく燦々と輝く聖徒もあれば、流れ星のように小さく一瞬だけピカッと光る聖徒もあります。ダニエルもこれを別な角度から預言しました。「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル一12・2、3)。聖徒ごとに報いが違います。その違いは何でしょうか。それは、今です。今、地上でどれだけ献身してイエス・キリストのために命をかけて自発的な愛の奉仕をするか、神様から与えられた仕事に何十%従順に仕えていくか、これが将来の変化の度合を決めるの大きな基準となっていくのです。イエス様が約束されます。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙22・12〜13)。ですから、いよいよ私たちの復活の体が優れたものになれるよう努力しなければなりません。黙示録22:5では、復活の体とは、眠くならない体、疲れない体であることが分かります。その理由は、天国には夜がないからです。神様御自身が私たちを照らされ、ともしびの光も太陽も必要なく、いつも、み父の光の中を健康に歩みながら、眠さも疲れも全くありません。詩篇121:4では「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」と書かれ、神様御自身が眠らないのですが、栄光から栄光へとイエス様に似せて変えられる私たちも将来、眠りが必要なくなる栄光の復活の体に変えられるのです。読者の皆様にもこのような体験がありませんか?断食祈祷を3日間位した後、食事をしてからその日の夜眠ろうとしても心が燃えて燃えて眠られません。私はそのような体験がたびたびあります。本当に聖霊様に満たされると夜通し、目がぼうぼう燃えてきて、次々とメッセージが出てきて、結局夜通し新しいメッセージを一生懸命作ったりして起きていますが、疲れず眠くもありません。それが聖霊様の燃える心で、無理な徹夜をしても全然堪えません。健康管理が必要なこの地上では、それがいいとは限りませんが、天上ではそれが必要です。なぜなら、天上の天国では夜がないからです。天国で、み父の光一杯の所で眠くなったら困るでしょう。私たちが近い将来いただける天国の復活の体は疲れも眠りも全くない完璧な体なのです。ハレルヤ。

聖書を研究すると一般的な人間の死には「第一の死」と「第二の死」二種類があります。「第一の死」とは、肉体が死んで魂が離れ、「さよなら。」という状態です。「おじいちゃん。死なないで。」と孫たちが言っても、「だめだ。」と言って死ぬ、これが「第一の死」です。そして「第二の死」(黙示録20:14)もあります。それは生前にイエス様を信じなかったから、死後、自分の罪によって裁かれて地獄の熱い炎の池にポチャンと落ちる怖い状態です。

死者の復活にも「第一の復活」(黙示録20:5)と「第二の復活」二種類があります。まず「第一の復活」とはクリスチャンだけの限定的な復活であり、時はイエス様の空中再臨時、歴史上産まれては死んだすべての旧約聖徒も含むクリスチャンがよみがえります。これについて聖書は

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケ第一4:16−17)と書かれています。その日、墓地などに納められたクリスチャンすべてが空中再臨のイエス様の力ある御声を聞いてよみがえり、復活の栄光ある新しい体をいただけます。「眠っている人よ!目を覚ませ!死者の中から起き上がれ!そうすれば、キリストが、あなたを照らされる!」しかし、不信者の死者には同じ頃、御声も神のラッパの響きも聞こえず復活ができません。不信者の死者が復活する日は、これより千年も先の「第二の復活」の日です。聖書では「第二の復活」という御言葉では直接書いていませんが、千年王国の後、最後の白い御座の審判の際、歴史上産まれては死んだすべての不信者がよみがえると書かれており(黙示録20:12)、クリスチャンに続く第二番目の復活です。私はイエス様の空中再臨の第一の復活の夢を見たことがあります。夢の光景で日本全国がリバイバルして、たくさんのクリスチャンが見えました。やがて彼らクリスチャンが日本中のあちらこちらから真っ直ぐ空中に引き上げられ、私もそのうちの一人として急速に引き上げられ、私の上にも下にもたくさんの男女のクリスチャンが見えました。空中では、かなり高度ある一点に輝く雲に乗って来られたイエス様がおられ、そこへ一挙に集められました。天気は晴れで、昼間の明るい時間帯でしたが、日本列島の形が私の足元はるかかなたに小さくなっていきました。確かにイエス様の空中再臨に与かる第一の復活があります。その日には無数のクリスチャンが空中に引き上げられながら復活の新しい体をもらって輝きます。そして大切な空中の七年婚宴が始まりますが、準備できていなかったために七年患難の地上に残されてしまい、その後、救われて殉教し、第一の復活に与る選民ユダヤ人クリスチャンもいます。

「また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(ヨハネの黙示録20:4−6)

近い将来、私たちのいただける復活の体について1番参考になるお方は、すでに初穂として復活されたイエス様です。イエス様が十字架の死後3日目に復活された御体を研究すると、将来の私たちの復活の体も見えてきます。復活されたイエス様はテベリヤ湖畔で弟子たちに朝食の焼魚やパンを与えられましたが、そこでは霊ではない肉体を持つ体でした。(ヨハネ伝21:13、15)また復活されたイエス様は室内にいた弟子のトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」(ヨハネ伝20:27)とも言われ、触れる感触ある肉体をも兼ね備えている霊ではないことを示され、イエス様は焼いた魚を一切れ弟子たちの前で召し上がられました。(ルカ24:43)もしもイエス様の復活の体が100%霊だけだったならば、魚を口から入れて食べても、そのまま下から、すとんと落ちてしまったはずです。イエス様の復活の御体は確かに胃腸ある肉体でした。しかしながら、復活の体とは同時に霊的な要素をも兼ね合わせた体であると推測できます。イエス様の語られた福音によると、「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ伝22:30)と預言され、聖書中、御使いたちは時に完全な肉体を持つ人のように現われ(創世記19:3、10、16)、時に完全な霊的存在としても姿を現わしています。(士師記13:20、マタイ1:20)ヨハネ伝20:26では、ドアを閉じてかぎをかけてユダヤ人の迫害を恐れて隠れていた弟子たちの前に復活されたイエス様はドアという物質をすり抜けて現われ、「シャローム」(平安があなたがたにありますように)と挨拶されて超自然的に室内に入って来られました。これは明らかに100%霊的な体でなければ不可能なことです。肉100%の私が仮に「シャローム」と言いながら壁に向かって歩いていっても絶対奇跡は起きず、笑いと、たんこぶしか残りません。さらにルカ伝24:31では、復活のイエス様はエマオの途上でも弟子たちに現われて物質であるパンを割かれた後、彼らがイエス様であることを悟ったとき、御姿がその場から消えて見えなくなられたと書かれています。もしも復活の体が肉体の要素と霊の要素を両方兼ね備えて自由自在に使い分けられる体ならば、これらすべてが可能でしょう。私は以前、教会員から復活の体を受ける空中携挙についての質問を受けました。「もしも、イエス様の空中再臨の時、部屋の中にいたらどうなりますか?」確かに私たちの空中携挙について考えるとき、もしも、今と同じままの100%肉的な体だけがそのまま復活の体であったならば問題です。その日、部屋の中にいた聖徒たちは空中携挙の最中に自分の部屋の天井にまっすぐ頭を一挙に一瞬のうちにガツンとぶつけて止まってしまい、空中に浮いたまま意識がもうろうとするなか響くラッパの音をファーンと聞き、しばらく部屋の上空をふわふわただよった後、意識が回復してから下にある窓の所までめまいのうちにダイビングしてはじめて屋外に緊急脱出し、命からがら携挙できたということになってしまいます。あるいは、たくさんの天井や強固な瓦屋根でも主の御力で打ち破って目に涙、頭にたんこぶ一杯で空中に引き上げられ、空中の途中で癒されてイエス様のふところに飛び込むこともできますが、それでは栄光になりません。もし、7階建てビルの1階オフィスにいた聖徒なら7つの天井を打ち破って合計7つのたんこぶです。ですから、空中携挙の日、私たちが引き上げられつつ即座に変化していただける復活の体とはやはり、後に来る千年王国で千年間使っても朽ちない今より丈夫で長持ちする地上の栄光の体であると同時に、朽ちない復活のイエス様のようなドアも天井も瞬時にすり抜けられる平安で、たんこぶのできない天上の栄光の霊的な体なのです。ハレルヤ。こういうわけでもう、空中携挙の日、お部屋の天井にある堅い梁や多くの蛍光灯による感電死などを恐れる必要は一切ありません。

「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(コリント第一15:49−52)ハレルヤ。

イエス様は私たちの復活の時を「天の御使いたちのよう」であると祝福されましたが、黙示録9:14−によるとたった4人の御使いが解き放たれるだけで、審判のため中国からの2億人の軍隊が動かされ、人類の三分の一を殺すほど絶大な影響力を人類史に現わしています。ここでは少なくても世界人口を仮に60億人とするなら、たった1人の御使いだけで4で割ると5000人もの力ある軍隊と、15億人もの尊い人類の運命を左右する絶大な権威が与えられています。ですから、将来クリスチャンの受ける復活の栄光とは御使いのようですから、それは私たちの想像以上に、はなはだ大きく、その権威も権勢もすこぶる偉大であると推測できます。事実、聖書は証言します。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。」(第一コリント6:2、3)