聖霊


 

                                         最後のアダム

神様がはじめに天地を創造されて第六日目にアダムを造られました。アダムについて「彼は来るべき方のひながたである」(ローマ5:21)と言われました。イエス様の模型、モデルであるというその意味です。人間は創世記1:26によると「われわれに似るように人を造ろう」と主が仰せられて父・子・聖霊の神様に似せて造られた存在です。それゆえ父・子・聖霊に似せて造られたわれわれ人間は霊・魂・肉の三拍子を持っている霊的な存在です。神様が永遠に生きておられるように私たちも永遠に生きる存在です。霊魂が永遠の天国で幸福に暮らすか永遠の地獄でそしりと忌みを受け苦しみながら滅びていくか二つに一つの道を人間は永遠に行かねばなりません。

テサロニケ第一5:23では使徒パウロがこのように告白しました。「あなたがたの霊と魂と体が完全に守られますように。」人間には霊・魂・体があるといいました。また第三ヨハネ二節では「愛する者よ。あなたの魂が恵まれるようにすべてが恵まれ健康であるように私は祈る。」と使徒ヨハネは告白しました。人間にはこれら三拍子があります。ところが動物には生き物としての霊はありますが、伝道者の書3:21に「獣の霊」と書かれてあるとおり動物が生きるための霊はありますが、魂がないのです。魂を口語訳では「こころ」と訳されています。こころが動物にはないのです。それゆえ動物はただ理性がなく本能によってのみ動かされ、本能によって行動するそのような存在なのです。しかし人間には魂こころがあります。この点において人間は全く根本的に動物とは違う存在として万物の霊長として高価で尊い獣以上の存在なのです。最初の人間アダムを主が造られたときに創世記2:7によると「土地のちり」によって人間を形作って創造したと聖書は証言しています。アダムは土地のちりで造られたのです。そしてその鼻にいのちの息吹を神様が吹きこまれたときに初めて人は生き物となって立ち上がりました。土地のちりとは言いかえれば土です。土で人間はつくられたのです。科学者によると人間とは約85%が無機質の水分でできており、それは酸素と水素です。それ以外の人間の原料とはカルシウムとナトリウムと鉄と窒素とリンと砒素と微量元素によってできているそうです。もし人間のこれら全部の元素を単なる資源として計算するならばだいたい2〜3万円位の価値しかないそうです。

いいかえれば本当に土地のちりのようなものです。そして実際的にも人間の成分というものは元素的にいうならば土地のちりである土と同じ元素によってできているそうです。人間は土地のちりにすぎない存在です。ところが神様がそこにいのちの息吹を吹きこまれたがために高価で尊い霊的な存在とされたのです。人間は一人の魂に何十億円もの保険がかけられるほど本当に価値あるものとされているのです。魂すなわち心ある人間は動物以上の高価で尊い特別な存在とされました。創世記によると最初に神様が人間を造られた後、動物たちを一匹一匹アダムの所へ連れて来られました。それは動物たちに対してアダムがどのような名前をつけるのか見てみようと神様が名づけ親の使命を与えられたからです。神様が物凄い多くの種類のいろいろなユニークな動物たちを一匹一匹アダムの所へ連れてこられました。アダムは責任ある名づけ親としてすべて異なるでたらめではないふさわしい名前をつけていったのです。一匹一匹にふさわしく名前をつけたことがわかるのは、後に女エバに対して名前をつけた時もでたらめな起源のない名ではなく神様が、男(イシュ)を用いて女を造ったその起源にふさわしく、男から「イシュから」という意味をもつ(イシャ)女と名づけているからです。今日の生物学者の話によると創世当初の地球には少なくとも70万〜100万種類は動物たちがいたと推測されています。それに加えて未確認の絶滅動物たちや恐竜たちも加えると天文学的な数の生き物がそこに満ち溢れていました。それら一匹一匹にすべて異なるユニークでふさわしい名前をアダムはつけていったのです。

そう考えるとアダムは非常に忍耐力のある英知に満ちた想像力豊かな心をもつ人物でした。アダムにはこのように連日出会う新しいユニークな無数の動物たちに名前をつけていく趣味のような楽しみがありましたが、もうひとつ、もっと大きな使命がありました。それは神様を礼拝するという使命です。人間は神様を礼拝するために造られた存在です。それゆえアダムの魂にはいつも渇きがあったのです。彼は魂の与えられた霊的な存在として神様を礼拝したくてしかたがないのです。霊的な分野の心が渇いてこれを要求するのです。丁度人間がかわいた砂漠において水が飲みたくてしかたがなくなるようにアダムも礼拝したくてしかたがなくなりました。神様の御前である時は一人で、またある時は合同で礼拝を捧げたいと思うようになりました。そこでこれは想像上の世界の話ですが、ある時アダムは出て行ってエデンの中でも最も賢いと思われたチンパンジーやサルやゴリラの所へ訪問しました。そして彼らに呼びかけました。「やあ。チンパンジー君。私は今からこれらエデンの園と私と全てのものを造ってくださった良き神様に心から感謝して礼拝を捧げたいと思うんですよ。チンパンジー君。よかったら私と一緒に合同礼拝をいたしましょう。じゃあ、今から私が導くから一緒に賛美を捧げましょう。

♪…海と空 つくられた主は あなたの主 私の神…♪」アダムが一生懸命賛美しながらちょっと横を見るとチンパンジーは「キー キー ウッキー」といって全然一緒に賛美できないのです。ことばが通じません。合同礼拝が成り立ちません。サルやゴリラやチンパンジーは人間の3歳位の知能レベルを持っていたとしても彼らには言語能力がありません。理性もなくただ本能によって生きる存在として一緒に礼拝ができないのです。そこでアダムは言いました。「サル君。元気で。さようなら。」そこで今度は代わりにエデンを歩いて行くとそこにヘビを発見しました。「あっ、ヘビ君。君ならできるだろう。」聖書は証言します。神様が造られた野の獣のうちでヘビが一番狡猾なものとして造られたのです。ヘビは当時、非常に人間に限りなく一番近い動物として存在していました。

創世記3:1によるとヘビは確かに人間と同じ言語能力を持ってエバと対話しています。ヘビは始め話すことが出来たのです。エレミヤ書46:22によると神様の審判の結果としてヘビは言葉を失ったと書かれています。「彼女の声は蛇のように消え去る。」(エレミヤ書46:22)それはゲラサ地方の豚の群れやエペソの獣の中にも入ることのできる悪魔がエデンのヘビの中に入って、アダムとエバを堕落させたため悪魔の共犯者として神様から審判を受けて呪われ言葉を失われたのです。ヘビは足も失われました。これも想像上の世界の話ですが、聖書では一番狡猾な野の獣はヘビだと書いてあります。だいたい動物の中でレベルの高い高等動物になればなるほど足の数が少なくなるものです。

先ほどのサルなどは人間のように瞬間二本足で歩くこともできるでしょう。でもだんだん下等な動物になると四足になり、もっと下等になるとムカデのように足が何十本も生えているのです。高いレベルの生き物こそ足が少ないのです。そして一番レベルの高い狡猾な生き物がヘビです。だったらそれよりも少しレベルの低いサルさえ二本足で歩けるならばなおさらのことヘビは二本足で歩けたはずです。そしてヘビは審判を受けた結果として足をすべて失い、地のおもてをはいずりまわらなければならない惨めな敗北した存在となったのです。ですからこうして考えると最初に人間の前にいたヘビとは人間そっくりに言葉を巧みに語る言語能力を持ち、人間のように二本足で歩くことができ、エバと対話できるほどの狡猾な知恵があったのです。これが最初のヘビだったのです。ですからアダムは出て行ってヘビに言いました。「ヘビ君。あなたは一番狡猾で私と一緒にコミュニケーションできますねぇ。人間と同じように座ることができますねぇ。まあまあ、そちらの岩場に腰掛けてください。」そしてアダムはいいました。「それじゃあヘビ君。今から一緒に祈りましょう。神様すばらしいですね。祈ったら願いがかなえられますよ。一緒に声を出して祈りましょう。ハレルヤ

。主よー。」アダムが祈り始めました。一生懸命祈りました。そうするうちにアダムはちょっと薄目を開けてヘビを見ました。するとヘビはポカーンとして目を開けたまま退屈そうにあくびをしているのです。ぜんぜん祈らないのです。「あれ、ぜんぜん無関心だな。」そこでアダムはすっかり心が冷めて目を全開にして言いました。「ヘビ君。ヘビ君。一体どうして君は祈らないの?どうして一緒に礼拝することができないの?」するとヘビは答えて言いました。「ん?礼拝?礼拝なんてつまらないよ。神様?神様ならよーく知っているよ。園を歩き回られるあのご主人様ですね。世界と私と全部を造ったお方ですね。よーく知っているよ。だいじょうぶですよ。」そう蛇は答えましたが、やはりヘビは人間ではなく野の獣です。人間と異なり神様を霊的・体験的に知る魂がありません。神様がおられるということを単に知識として神学的に知っていたけれど霊的・体験的に神様を知らないのです。これが魂を受けた人間と魂のない獣との根本的な違いなのです。こうしてアダムは落胆しました。「だめだ。ヘビと一緒に礼拝を捧げることはできない。」それもそのはずです。獣には人間と異なり、神様を知る霊的な分野が始めからないのです。それでアダムはたった一人ぽつんと取り残されてしまいました。「ああ。残念だ。合同礼拝は不可能だ。これらエデンには幾千幾万と数多くの動物たちが満ち溢れているけれど私と一緒に礼拝のできる魂を持った存在は誰もいないのだ。彼らはみんな獣なんだ。」エデンにいる数多い動物たちは確かにある程度はアダムの助け手として牛は牛乳を供給し、馬やロバ・らくだ等は荷物とアダムを運ぶ自動車にもなり、犬は番犬や盲導犬の使命、鶏は目覚し時計、小鳥たちは美しく心を和ませる快適な暮らしのBGM等など役に立ちましたが、アダムにとって最も大切な霊的な分野を助けられるふさわしい助け手は何処にもいません。霊的に孤独で落ち込みそうなアダム。しかしその時です。すべて気落ちした者を慰め励ましてくださる神様である主が、深い眠りをアダムに下されました。アダムは神様からの眠りの霊にとらえられてグーグーと眠り始めたのです。そしてアダムが熟睡している時に神様は大胆な外科手術を行いました。アダムのわき腹を切り裂いて血を流し、そこから一本のあばら骨を取り出してから再びそこをふさいで治療しました。

この取り出された骨を原料に一人の女を造り出したのです。アダムにふさわしい助け手エバです。ここで現代の西洋医学の飛躍的な発展をもたらした麻酔薬についてその起源とは聖書のこの記述をヒントに発明されたそうです。眠っている間に骨を取り出すような大手術をしても意識がないから痛みなく治療ができるのです。聖書は現代医学に大きく貢献しています。ちなみに現代のガン治療に欠かせないラジウムを発見し、その製造法に特許を取って巨万の富を得ることなく、神様がすべての人類の癒しの為に世に与えたものとして無償で広く普及させたキューリィ夫妻もクリスチャンでした。エバはアダムのあばら骨をもとにして造られました。ユダヤ人はこの御言葉から女がアダムの頭の骨でもなく足の裏の骨でもなくアダムの心臓に近いあばらから取られた事について女は男の上に立つものでもなく男の下に踏みにじられるものでもなく平等な存在として心臓のように大切にすることを認識するそうです。アダムはそのような感覚のもとで女を見て大喜びして賛美しました。「これこそ、今や、私の骨の骨、私の肉の肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」こうしてアダムはエバを喜んでめとり夫婦は一体となったのです。その後、アダムは新婚生活の感動覚めやらぬうちにかねてからの願望、今まで達成できなかった合同礼拝を成就しようと挑戦してエバにすぐ呼びかけました。「私の妻よ。一緒に礼拝をしましょう。」すると今までとは全く異なる反応が返ってきました。「はい。あなた。」そして一緒に賛美が始まりました。「♪…海と空 造られた主は…♪」とアダムが賛美を導くとエバも一緒になって「♪…あなたの主 私の神…♪」と一緒に賛美ができるのです。「ハレルヤ!」アダムは嬉しくてたまりません。

そして今度はアダムが「主よー。」と祈り始めるとエバも一緒になって「主よー。」と言って一緒に祈り、一緒に感謝を捧げ、一緒に礼拝ができるのです。「これぞまさに私にとって最もふさわしい助け手だ。」アダムはこうしてハレルヤ感謝で妻を愛し幸せに末長く(930歳)暮らして行ったのです。

 ローマ書の5:14ではこのアダムに対して「きたるべき方のひな型です。」と書かれています。きたるべき方とはイエス・キリストです。また第一コリント15:45ではイエス様について彼は「最後のアダム」であると証言されています。それはどういう意味でしょうか。最初の人間アダムと後に来られた神様のひとり子イエス様とはいろいろな意味で共通点があるのです。それゆえイエス様は最後のアダムと呼ばれているのです。最初の生まれ方について考えてみましょう。アダムはどのようにして造られたのでしょうか。神様が土地のちりで形造ってその鼻に直接いのちの息を吹き入れて人は生き物となって立ち上がったのです。アダムは人間の肉の父親を持たないで超自然的に神様より直接生まれたのです。それは不思議な出生であり神様の神秘です。そしてイエス様も同様の神秘的なお生まれをしました。イエス様の出生にも肉の父親がいなかったのです。聖霊様によって超自然的に直接神様より生まれたのです。この点においてアダムとイエス様には共通点があるのです。またアダムは三位一体の神様に似るように創造された為、人類の中で一番よく神様に似たかたちを持つ原型のような存在であったと仮定すると最後のアダムなるイエス様は「見えない神のかたち(神のイメージ)であり、造られた全てのものより先に生まれた方」(コロ一・十五)でありイエス様は見えない神様のイメージの完全な現われですから、半分ジョークですが、昨日も今日もとこしえに変わらない神様中心に似せて造られたアダムとイエス様は互いによく似た姿かたちであったかもしれません。

その後アダムの生活が始まった時のことをみるとここにも共通点がみられます。アダムが動物たちに名前をつけ始めました。そこには数多くの動物たちが次々と神様から呼ばれて集まってきました。それらユニークな一匹一匹にその起源や特徴にふさわしい名前をつけていったのです。例えばこんな感じに「君は首が長くておもしろいねぇ。キリンと名づけよう。君は耳も体も大きくて鼻が長いからゾウと呼ぼう。…」これがアダムの使命でした。ちょうど最後のアダムなるイエス様も同じような使命があったのです。イエス様は30歳から公生涯が始まりました。イエス様は心に断食祈祷され徹夜で祈りあかされた翌日、父なる神様の御旨に従い12人の弟子たちを選ばれたのです。その時イエス様はユニークな動物たちのような個性の強いそれぞれ異なる性格を持つ12人が集まって来たのをみて、本当にほほえまれて名付け親として一人一人にあだ名を付けられたのです。ペテロがやって来ました。彼の本名はシモンといってその性格は揺れる葦のような気質でした。ある時にはイエス様を絶対裏切らないと愛の告白をしたかと思えば、ある時はイエス様を知らないと3度裏切る告白をしてしまう右に左に揺れ動く軽い植物の葦のように心定まらないペテロの優柔不断な本質を見ぬいてイエス様は「あなたはペテロ(岩)だ。」と新しい名前を与えて励ましました。その願いは将来岩のように堅く不動な強い心の人になって初代教会の柱になることでした。

またヨハネをみると気性が荒く短気でちょうど雷がピカッと光るとすぐにドカンと落ちてくるような気質にふさわしいボアネルゲ。訳すと雷の子とあだ名されたのです。その願いはヨハネが日々そう呼ばれることにより、よく自らの短気を自覚させて愛の使徒に造りかえるためでした。

アダムが一匹一匹その特徴にふさわしい名前を付けていったように最後のアダムイエス様も一人一人の弟子たちにふさわしいあだ名をつけていったのです。確かに共通点があります。ところがここに問題点がありました。当時イエス様が徹夜祈祷までして12弟子を選ばれ彼らは確かに集まったことは集まったけれど彼ら弟子たちにはまだ聖霊様が注がれていなかったため彼らには神様を知る分野の霊が眠っています。魂が自らの罪のために死んでいるのです。ですから彼らはイエス様を単なる知識として良く知っているけれど、いぜん偉大な教師あるいは宗教家ていどの認識しかなく本当の意味でイエス様の助け手としてふさわしく合同礼拝することができないのです。

ある日のことです。イエス様は霊的にまだ眠った状態の12弟子をおともさせてあちらこちらに旅をされ、福音をすばらしく解りやすいたとえ話を持って宣べ伝えられました。しかしその後のことです。弟子たちがやって来て口々にいいました。「イエス様の言われたメッセージの意味はいったいなんだろう。私たちには全然わからない。」弟子たちは繰り返し世界最高級のリバイバリスト・イエス様によるミニストリーを直接見聞きしていてもいつも誤解ばかりです。イエス様もまた度々言われました。「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。…」。霊が違うからです。またある時には、イエス様は弟子たちをおともさせてゲッセマネの園に行かれ徹夜で熱く祈られたのです。その時イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」そう言われてから真剣に大きな叫び声と涙をもってご自分を死から救うことのできる父なる神様に「アバ父よ!」と熱く3時間祈られたのです。非常に敬虔な聞き入れられる信仰の祈りでした。しかし弟子たちは同じころ同じ園で「グーグー」と熱く3時間眠り込んでいるのです。全然音が違うのです。言葉が通じない、霊が一致しないのです。あんまりペテロが大声でいびきをかくからそれはもう野の獣の鳴き声のようです。意志が通じません。どんなにイエス様が弟子たちと一緒に合同礼拝をしたいと思ってもとうてい不可能です。ちょうど人間が野の獣と対話できないことと同じような状態です。使徒の働き1:6ではイエス様が福音を語られ死人を生かし悪霊を追い出し病を癒したりすべての奇蹟を行なうのを3年半もの間、目撃した弟子たちがイエス様の十字架の死からの復活以降にさえ間違った的外れの質問をしているのです。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエス様の栄光をすべて見ていながらも弟子たちはまだ霊的に鈍かったからイエス様をローマ軍から救ってくださるこの世の政治的なメシヤとして期待していたほどです。いつもイエス様と悟りなき弟子たちは人と動物たちの出会いのように会話が合いません。

そこで父なる神様はこれを見て決心されました。「アダムが一人でいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」と決心された時のようにイエス様に対しても御心を定められました。「イエス様が一人でいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を送ろう。」こうしてイエス様に助け手を送る準備をされました。ここに奥義があります。初めの人間アダムが造られた時、アダムは深い眠りに落ち込まれました。彼が寝ている間にわき腹が裂かれて血が流れ、そこから取り出したあばら骨をもとに助け手エバが造られたのです。妻エバはいつもアダムと共に合同礼拝を捧げ、アダムを助けられるふさわしい助け手として活躍しました。同じように父なる神様は最後のアダムなるイエス様に対して同じ外科手術をされたのです。イエス様をまず眠らせなければなりませんでした。

イエス様は何も罪がないのに当時の人々から妬まれ憎まれ十字架の木につるされたのです。ずたずたにムチ打たれた御体の傷口からは血潮が流れ6時間悩みを受けた後に死なれたのです。イエス様は十字架で死という名の眠りにつかれたのです。十字架上、死という眠りについたその時です。ローマ兵の一人がやって来て本当に十字架で死んだのか、それとも単なる気絶や仮死状態に過ぎないのか確かめようと鋭いヤリで残酷にもイエス様のわき腹を突き刺したのです。するとその瞬間目撃者ヨハネによるとイエス様のわき腹から水と血が流れ出てきたのです。最後のアダムなるイエス様の十字架上、流れ出たわき腹の血潮、これこそ約束の聖霊様がふさわしい助け主として世界に注がれるための代価だったのです。イエス様は3日目によみがえって昇天後ペンテコステの日を機会に聖霊様を助け主として注がれ始めたのです。ハレルヤ。聖霊様はイエス様の全くふさわしい助け主なのです。しかしここに再び問題が生じたのです。父なる神様は確かにオリーブ山から昇天して天国に勝利の帰還をされた王の王イエス様から十字架の血潮を直接受けて約束の聖霊様をこの世界に注がれましたが聖霊様は神様です。神様であるがゆえに人間のような肉体を持たないのです。地上に来られたのに霊的な存在で人間の目には見えません。全く聖なるお方で人間には見ることができません。そこでイエス様の働きを継続的に成し遂げるあたかもキリストの妻のような助け主になるにはどこか聖霊様の住みつく神殿が必要だったのです。聖霊様は御心によって選ばれました。かつてイエス様と親しく共に歩んだ弟子たちを好んでそこに住みつかれました。聖霊様はその日、初代教会に集う120人の弟子たちの上に下られ、彼らは変身したのです。彼らは以前は弱く恐れおののくものでした。

ところが内側に神様の聖霊様が入ってくるや否や全く別人に変身してしまったのです。今まで死んでいた霊魂が突然聖霊様を受けるや否やよみがえったのです。彼らは新しく生かされたものとされました。弱いものが強くされ、恐れに満ちたものがキリストの証人として強く雄雄しく大胆に福音を語るものに変えられたのです。罪あるものたちが聖霊様を受けるや否や罪に打ち勝ち赦された義人として新しくなって聖い生き方をするように変えられたのです。弟子たちはあたかも自分自身の実力で力ある聖い者に成長したかのような錯覚を覚えましたが、これが内に住まわれた激的変化の源、聖霊様です。特にイエス様を3度も裏切った経験持つペテロなどは聖霊様を受けるや否や全く新しい人となって今度は絶対イエス様を拒まない伝道者となって立ち上がりました。ペテロはまさにイエス様のふさわしい助け主聖霊様を受けてキリストのふさわしい妻のように活躍して働き始めました。イエス様と一緒に一致した霊と真心をもって父なる神様に合同礼拝を捧げられるペテロに変えられたため、初代教会は神の国が力強く臨在し悪魔の働きが滅ぼされていきました。かつてイエス様はこのようなペテロを慈しんで預言されました。「あなたはペテロ。岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」初代教会の柱として用いられた使徒ペテロは確かに力ある堅い岩のような信仰の指導者として動じることなくリバイバルを次々起こして使命を果たし、最後にはローマ軍の迫害が攻め寄せる中、一度は難を逃れて教会から逃避しましたが、聖霊様に立てられた代表者として悔い改め、再び迫害の只中に堂々と戻っていく実に殉教の死に至るまで主イエス様に従う従順な助け手となれたのです。その時、ユニークな発想を持つ使徒ペテロは主と同じ十字架刑を畏れ多く考え、自らの申し出によって逆さ十字架という形で頭を下に足を天に向けながら昇天しました。後に使徒ペテロの殉教したまさにその場所には聖徒たちが集ってペテロの墓を建て、さらに今日ではその上に教会が建てられました。これが有名な美の伝道と言われた町バチカンです。

バチカンにある大きく美しい数々の教会が建築された当時には、まだ文字が一般的には普及していませんでした。そこで教会堂の内壁や天上に壁画として聖書の内容を見事に描いて布教したものが今日でも多くの観光客を引き寄せ、視覚を通して福音にふれるチャンスの場となっています。イエス様の預言通りに使徒ペテロの上に教会が建てられたのもペテロが聖霊様を受けて死に至るまでも従う者に変えられたから成就したのであって聖霊様を受けることはこれほど重要です。さらにAD312にはローマ皇帝コンスタンティヌス一世の救いを機会にあれほど迫害していたローマ全体がキリストの御前に屈服してキリスト教を国教に定めてしまったのです。聖霊様は力強く偉大です。聖霊様を受ければ誰であれ変えられ、かつては野の獣のように言葉の通じなかった弟子たちや強暴な種類の牙ある獣だった迫害者たちもイエス様の働きに役立つ助け手になれたのですから。イエス様から雷の子と名づけられたヨハネ、彼も聖霊様を受け新しい人に変えられて愛の使徒と呼ばれるようになりました。ヨハネは愛の使徒にふさわしくヨハネ第一第二第三の手紙の中で繰り返し愛の重要性を説いたのです。伝説によるとパトモス島に島流しにされた使徒ヨハネは殉教をのがれ90歳以上生きたキリストの証人として重んじられ、老人になってからも教会での説教はいつも愛し合うようにとの激励だったそうです。もともと激しやすかったヨハネが忍耐強く愛を説く使徒へと変身できたのも聖霊様の働きだったのです。聖霊様を受けることだけが私たちをイエス様のふさわしい助け手とならせ、イエス様と同労できる絶対条件なのです。私も個人的に考えてみると私がイエス様を信じて聖霊様を受ける前は、イエス様と同労ができない野の獣のような存在でした。それは神様と言葉が通じないものでした。

私が17歳から教会に行き始めて19歳で聖霊様を受けるまでの間、暴れに暴れました。私が一番暴れた理由とは人生の生きる目的を喪失していたことです。なんのために人は生きて生かされているのか全く意味がわかりません。おもしろおかしく生きたほうがいいんだろうか?そんなに思いながらめちゃめちゃに騒いで遊んでいました。ある時は友達と酒をがぶ飲みして酔っ払い、その勢いで道端に行き大騒ぎして「ガオー」と叫んだり、またある時はささいなことで激怒して犬が「ワンワン」と吠えるようにどなったり言葉の通じない者でした。教会の人がやって来て私を救おうとどんなに説得してくれても動物と人間が言葉が通じないように理性を持たない私と教会の人は話しが通じません。そのため始めの教会生活二年間は私の場合、求道者というよりは実質迫害者のように教会の人が答えられないような難解な質問ばかりして困らせていました。本当に自分が救われようとしたものでもなく礼拝に関心がありません。「みんなで祈りましょう。」と言って会衆が祈る時も私は祈らないでちゃんと目を開けていました。本当に野の獣のような私でしたからどうしようもありません。ところが変身する時がきました。悪いことをしすぎて、ちりも積もれば山となるように私の中に山のような罪責感の重荷がやってきたのです。なんかあんまりむなしくて死にたくなったのです。神様は相変わらず解らないし自分は野の獣のようで人生はめちゃめちゃだと思いました。

それである時あんまり苦しいので一度まじめに祈って見よう、もしかしたら本当に神様がいるかもしれないと思って真剣に祈りました。祈ったその時、その場で聖霊様が私に注がれたのです。私は圧倒されてその場で泣き崩れて倒され聖霊様がさらに物凄く熱く注がれたため私の中から悪いものが出て行き私は新しい人に変えられたのをはっきり感じました。今まで神様がそんなにわからなかったのが霊的な世界が開かれてはっきりとわかるように変えられました。私の死んでいた霊魂が生き返ったのです。野の獣のように理性なく暴れまわっていた私が新しい人に生まれ変わりました。イエス様の聖霊を受けた者としてあたかもキリストの妻のようにキリストといつも共に生活してキリストに仕える者へと変えられたのです。そして今は礼拝者、主に奉仕する者、キリストの働きを成す者として新しく生まれ変わることができたのです。今は心の中から憎しみや怒りや妬みや罪責感など消え去り、代わりに信仰と希望と愛と喜びが本当に満ち溢れ、以前と比べるとなにか動物の世界から人間の世界に目覚めて移り変わったような感覚です。それが聖霊のバプテスマの体験でした。誰であれ聖霊様を受ければ古きの人はキリストと共に死んで新しくキリストと共によみがえる変身の希望があります。

 最後のアダムなるイエス様と最初の人アダムとの大切な共通点がもう一つあります。始めのアダムはエデンの園で裸で生活していました。エデンの園とはそこに4つの川が流れていて大変湿潤で寒さも熱さもなく今日の空調設備や暖房や冷房も必要なく人にやさしい快適な園でした。ですからアダムは裸でも楽に生活していたのです。ところが後にアダムが罪を犯した後、彼は裸であることを恐れて恥じる者へと変えられたのです。そこでアダムは自分で見つけたいちじくの大きな葉を腰のおおいとしましたが、やがてつぎあてを繰り返しても役に立たない枯れる一時的で不完全なガサガサ音をたてて朽ちていく衣となりました。アダムがみじめにも穴だらけでぼろぼろになったいちじくの枯葉の繊維を押さえながら裸の恥に悩まされていた時、慈悲深い神様は一匹の動物を殺して血を流しその皮をはがして人類最初の服としてアダムに与えられました。この朽ちない皮の衣だけがアダムを裸の恥から堂々と恥じることないよう完全にガードできました。これは人間の罪の恥は人間自らの力による努力や良い行ない、優れた学問や宗教、倫理、道徳等では絶対一時的にしか覆い隠せず、永久的に罪の恥を覆い隠せる完全な義の衣とはただ神様から与えられる一方的恵みしかないことを教え、人のために血を流して殺された罪なき動物とは人の罪を完全におおう実力ある正義の衣、十字架で肉を裂かれた罪なきイエス様を象徴しています。こういう訳で聖書では「主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ13:14)と勧めていますが、最後のアダムであるイエス様ご自身も裸の恥に悩まされるアダムと同じような体験がありました。最初の人間アダムが裸であったようにイエス様も最後のアダムの使命があったため裸とされる時が来ました。

それはカルバリ山の十字架の上です。イエス様は最後の一枚の服である下着さえもくじ引きにされて取り去られ完全に裸となって十字架に釘づけられたのです。イエス様は完全な神様であられると同時に完全な人間としても来られたため、その人として性質上、群衆の見つめるなか裸にされた体験は恥ずかしくて恥ずかしくて耐えられないものでした。十字架の周りにたくさんの群衆が男も女も取り巻いているのです。ユダヤ人だけでなくローマ人や世界中の人々が集まって来るのです。だからイエス様は通常なら十字架の上で恥ずかしくて顔も上げられない位です。

ところがこれ程まで凄惨な哀れみなき十字架刑の只中にさえ慈悲深い神様の英知に満ちた配慮がそこに準備されていました。これはこの奥義を悟る人にだけ示されるかされた神様の愛の配慮です。始めのアダムに皮の衣を与えられた神様が最後のアダムなるイエス様にも一つの裸の恥を覆う正義の衣をそっと着せられていたのです。その神秘的な正義の衣とは一体なんでしょうか?。それが、イエス様ご自身十字架上流された血潮の衣なのです。なんと主イエス・キリスト本人がご自身の血潮というかたちで主イエス・キリストを着たのです。ハレルヤ。イエス様は執拗にムチ打たれ、頭にはするどいいばらの冠を受け、手足には釘が打たれたから、そこから血潮が全身に止まることなく溢れ流れました。イエス様の全身は真っ赤に染められてまだらな血潮の衣に包まれたのです。

 先日、義理の母が誤って包丁で指をちょっと切ってしまいました。その時その出血した赤い傷口を私は心配して手をとって見ました。すると切れた傷口の赤い血を見た私はもう怖くなって震えてしまい、助けるどころか本当に力が全身から抜けてしまいました。もちろん瞬間的に傷口から目もそらしました。人間というのは動物的本能で赤い血を見たら恐れて動きが止まってしまう性質があるものです。その理由で信号のとまれが赤なのか解りませんが、人間は正常なら血を見たら瞬間的に力が抜けるものです。イエス様は血潮を流されました。そのためカルバリに集まった群衆はイエス様の血潮にまみられた姿を心理的におぞましく思って醜く忌み嫌う虫けらのように目をそむけたのです。見たくないのです。それが実は父なる神様からイエス様に唯一与えられたどんなに見られても裸の恥とはならないおおわれた正義の衣・愛の配慮だったのです。ハレルヤ。さらにイエス様の私たちに対する熱く燃える全き愛もすべての恐れを閉め出し、裸の恥辱心を消滅させる完全な皮以上の衣の役を果たしていたのです。

イエス様は命を捨てるほどあなたを愛しています。その確かな証拠として流された十字架の血潮こそあなたに聖霊様を注ぎ、キリストのふさわしい助け手とする生きた恵みの力なのです。