旅行 


 

                                     十二部族の宿営

 旧約時代、40年もかけて旅行した偉大な旅する民族がいます。イスラエル十二部族です。私たちの人生も旅人のようで、寄留者のようなものですから、彼らの荒野における旅路とその宿営のあり方は、私たちに大きな教訓を与えています。

民教記二章では平野の広がる荒野を旅する途中イスラエル十二部族は、各々その父祖の家ごとにかたまって会見の天幕の周りに距離を置いて主の御前、整列してきちっと宿営する定めがありました。中心に位置する会見の天幕とは一キュピト四十四センチで計算すると、縦四十四メートル、横二十二メートルの長方形の形でした。この幕屋の門がある前側の東方向には、いつもユダ族とイッサカル族とゼブルン族が宿営する場所であり、登録した男だけで十八万六千四百人もいて、この東側に延びた集団が最も数多く、彼らは部族ごとにきちっと並んで宿営するため上空から見るとちょうど長い長方形の形をしていました。一方、幕屋の後ろ側の西方向には、エフライム族とマナセ族とベニヤミン族が宿営し、この西側に延びた集団は、最も数少ない十万八千百人。そして幕屋の両横側にはまず南方向に延びる、ルベン族とシメオン族とガド族が宿営し十五万千四百五十人。幕屋の反対側の横である、北方向には、ダン族、アセル族、ナフタリ族が宿営し合計十五万七千六百人。これは反対方向の南に延びる集団とほぼ同じ数のため幕屋を中心に同じ位の距離まで南北におのおの延びていました。

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 ですから、彼ら十二部族の宿営の状態はレビ族の奉仕する長方形の幕屋を中心に東西南北へ秩序正しく延びており、その父祖の家ごとに距離を置いて整列されていたのです。その総数は六十万三千五百五十人ですが、これに登録されていない老人や子供たち、女性を加えると多産なヘブル人社会(出エ一・七、民二二・三)、二百〜三百万人はいたのです。すなわち、これら全イスラエルの宿営地を上空から見下ろすと、彼らは巨大な十字架の形をした大行進だったのです。ハレルヤ。荒野の教会です。今日も、教会は十字架の大行進として全ての人数を加える時、初めて本当の十字架の形になるのです。ものの数に入っていない登録外の無名な、取るに足りない存在と思っていた、そんな私たち一人一人が重要な、なくてはならない十字架の欠けた形を満たす大切な一人一人だったのです。だから今、パウロと共に大胆に告白しましょう。

「ですから私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだ(教会)のために、私の身をもってキリストの苦しみ(十字架)のかけたところを満たしているのです。」(コロサイ一・二十四)。

 

                                    バラクとバラム

 あなたは神様の目に高価で貴い存在愛されている十字架の軍隊の一人です。民教記二十二章では、このような十字架の形で一致団結して宿営、行進を繰り返すイスラエル人に対して、モアブの王バラクが大いなる恐れを抱き、よこしまで心定まらない預言者バラムを手厚いもてなしで雇い、イスラエルを呪ってくれるよう要請したのでした。今日も、私たち全ての教会が一致団結して十字架を現わすと、サタンは恐れおののくのです。バラク王に誘惑された預言者バラムが祈るとはっきり主は言われました。

「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民を呪ってもいけない。その民は祝福されているからだ。」(民二二・一二)

 しかし、預言者バラムは命をかけても、この御言葉に従い、主と同じ心になってイスラエルを祝福し、呪わないことを決心すべきだったのに、あいまいにバラク王の使者を招き入れて泊まらせ、自分に都合の良い、他の御旨を求めはじめたのです。

 そのため、一度主にあって語られた御言葉を信じず、バラク王からもらえる不義の報酬を愛した、かたくなな預言者バラムに対して今度は主が「行け。」と命じられたのです。それは主の道とは反対の道です。ちょうど主がエレミヤを通して敬虔なレカブ人の家で、葡萄酒を満たした壺と杯とを差し出して、彼らに「飲みなさい。」と言うと、彼らの固い決意と信仰が現われ、「私達は全家をあげて、一生葡萄酒を飲まず、葡萄畑も、種さえも持たない。」と立派に告白したように(エレミヤ三五・六)、預言者バラムもそうあるべきだったのです。

 ところが預言者バラムの場合、翌日起きると、自分のロバに鞍をつけて準備し、バラク王の使者たちと一緒になって出発進行してしまったのです。これを聖書は預言者バラムのきちがいざたと呼んでいます。(Uペテロ二・一六)。本当は預言者バラムはへりくだって、こう告白すべきだったのです。「主よ、私は行くことができません。まがりなりにも、主の預言者が彼らと共に行くならば、あなたの敵にあなどりの心を与える機会となり、神様のイスラエルをうかがうことは、主を試みることにもなります。悔い改めます。私は絶対行けません。」

 しかし御旨と反対の道を進み行くかたくなな預言者バラムであったため当然、試練が降りかかりました。抜き身の剣を手に持つ主の使いが道に立ちふさがり、預言者バラムを殺そうとしたのです。惨めな預言者バラムは、この時ロバに救われました。ものを言うことのないロバが突然人間の声でものを言い始め、生涯主人に従順だったロバの生涯から、いまだ不従順な預言者バラムは生きた教訓を受け、そのきちがいざたを悔い改めさせられたのです。

 その後、主の使いに出会い、悔い改めたバラムは真の神様よりの預言だけを語る決心をしました。こうして翌日のこと、一度目バラク王は預言者バラムを連れ出し、イスラエルの民を呪ってもらおうと期待しながら見晴らしの良い高い場所バモテ・バアルに上がらせました。預言者バラムはそこからイスラエルの宿営の一部だけを見ることができたのです。もともとそこから宿営しているイスラエルの民を呪ってもらうために雇われた預言者バラムでしたが、悔い改めた預言者バラムは反対にそこで主からの祝福のメッセージだけを啓示されたため忠実にこれを宣言しました。「神が呪わない者を、私がどうして呪えようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。」(民二三・八)。こうしてイスラエルの民を呪うことに失敗したバラク王はこれを聞いてもあきらめることなく代わりに、二度目、他の場所へ預言者バラムを連れ出しました。他の場所からなら今度こそイスラエルの民を呪うことに成功できるとバラク王は考えたからです。そこも見晴らしの良い高い場所、ピスガの頂です。彼らが頂きに登って見下ろすとそこからイスラエルの宿営全体は見えず、ただ一部分だけが見えていました。しかし、ここでも預言者バラムが再び主に祈ると主から啓示された神様からの忠実な御言葉は「見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことは出来ない。」(民二三・二〇)。と、呪いではなく再び祝福そのもののメッセージだったのです。こうして二度目も作戦失敗したバラク王でしたが、執拗にあきらめず何とかイスラエルを呪ってもらえないものかと思いながら今度は、ついに三度目もう一つ別の高い場所、ペオルの頂上に預言者バラムを連れ出しました。そこからなら、イスラエルを呪えるかもしれないと思ったからです。そこからは荒野に宿営するイスラエル人の全体が見下ろせる絶好の場所です。しかし三度目、預言者バラムが目を上げてイスラエルの十字架の宿営地全てを眺めたその時、神様の霊が彼の上に臨んで主からの祝福のメッセージを預言し始めたのです。真に十字架の全体像を見つめるその時、聖霊様は注がれ預言するものです。バラムは目が開かれて預言しました。

「なんと美しいことよ!ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。」(民二四・五)。

「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる!」(民二四・九)。

 これが十字架による呪いを祝福に変える力です。十字架は本当に目が開かれてみると、驚嘆するほど美しいものです。サタンがバモテ・バアルの上から呪い、ピスガの頂から呪い、ペオルの頂上から呪おうと攻撃してきても、十字架の下に身を寄せる私たち神様のイスラエルには、一切呪いはかからずに、ただそこには呪いの反作用、祝福だけがあるのです。ハレルヤ。今日も空中の権威を持つサタンが私たちの高き所なる頭の考えを通して一度目、肉の欲で挑戦してきたならば、イエス様の十字架の血潮に身を寄せ勝利しましょう。二度目、別な角度、目の欲で挑戦してきたとしてもイエス様の十字架の血潮で変わらず打ち勝てます。三度目に暮らし向きの自慢で誘惑してきたとしても、イエス様の十字架の血潮により完全勝利できるのです。すでにイエス・キリストは勝利されたのです。(マタイ四章)。今は祝福あるのみです。

「彼らは呪いましょう。しかし、あなたは祝福して下さいます。」(詩一〇九・二八)。アーメン。

 民教記二十八章の祝福のリストには真の祝福とは、物質的豊かさも含まれています。使徒パウロはこう言いました。

「主は豊んでおられたのにあなた方のために貧しくなられました。それはあなた方がキリストの貧しさによって富む者となるためです!」(Uコリント八・九)。貧困は神様の御旨ではありません。イエス様は元々大工だったにもかかわらず、枕する家もなく、女たちの献金で生活(ルカ八・三、 詩六八・一一)する物質的な貧しさを通られたのは、私たちが物質的豊かさを受けるための身代わりです。神様との忠実な契約、エデンの善悪の木の実のような什一献金を神様のものとして手をつけず、自分の教会に捧げ、祝福された富む者となりましょう。(マラキ三・一〇)。受けるよりも、与える幸いな人になりましょう。そのためにもイエス様はいばらの冠を受けて十字架の木で血潮を流されたのです。