ペイメント


 

                  義認・聖化・栄化

人間の罪とは、いつかは誰かがペイメントしなければ永遠に終らない裁きが伴う大変やっかいな性質のものです。聖書では罪の代価は死であると宣告します。しかしもし、すでにどこかで誰かが私たちの罪の代価をすでに支払っていてくれていたならば、どんなに素晴らしいことでしょう。その誰かとは実在の人物、罪なきイエス・キリストです。

 神様の法律である律法では「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル九・二二、レビ一七・一一)と定まっています。旧約時代、人々は罪赦されて神様に受け入れられる礼拝を捧げようと人の代わりに罪なき小羊や子牛などの動物を祭壇上でほふり、その流された動物の血をもって赦しと聖め、神様との和解を求めました。その時に捧げることのできる動物の条件は子牛のような高価な動物ほど細かい規定の定めが多く、律法によるとまず皮をはぎ、見える所の外面の傷がないばかりでなく、皮をはいだことにより初めて現われる内面の内なる傷やシミや病気もないかを十分吟味した上で、ただ傷のない完全な動物だけを捧げることができ、神様にその血は受け入れられたのです。(レビ一・六)。

 新約時代、ただ一度人々の罪を身代わりに背負う罪なき神様の小羊イエス様の場合にも同じ規定が成立ちました。神様に受け入れられる捧げ物は絶対罪の傷や呪いのシミがあってはなりません。通常のすべての人間には罪があります。しかし、唯一イエス様の御生涯だけは外なる人前での行動や発言において全く罪や欠点などが見られない完全なふるまいをされ、さらには皮をはいだ内なる人としても心底聖い霊と心と思いをもたれ、生まれながらにして全く罪の支配も影響もなく、罪の要素を持たない聖なる驚くべき完全なお方でした。人は心に満ちるものを口から語ります。イエス様の人としての公生涯、語られた数々の聖いメッセージからその内なる人の聖さは十分立証出来ますが、その中でも最大級にキリストの内なる人の聖さを立証した出来事とは十字架です。イエス様は背中にムチ打たれ、十字架の木に釘打たれ、執拗に肉体の皮がはがされて、血潮が流れ出る、壮絶な死の体験をされましたが、そのような死の地と死の陰にみまわれた窮地に立たされ、本当の内なる人が現われる時でさえ、イエス様の心には自分を迫害し、釘打つ者への呪いや復讐心、憎しみのような、内なる隠されたシミも傷も全くなく、むしろそこには完全に聖く純粋な愛から生じる迫害者への深い哀れみと赦しととりなしの祈りがあったのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのが自分でわからないのです」(ルカ二三・三四)。        

 人は自分が豊かで安全な時、外なる人として義人を装うことも十分出来ますが、落とされて激しい試練と患難が自らを襲い、絶体絶命の窮地に追い込まれた時、その人の内なる本当の人間性が見えてきます。あるいは「るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人はためされる。」(箴二七・二一)。とある通り、反対に極端に高く、高められた有頂天になりそうな程の繁栄の時、内なる本当の人間性が見えてきます。そう考えると群衆から「ホサナ、ホサナ!」と称賛された時も、十字架に落とされた時にも、いつも変わらず愛と聖さを保たれたイエス様こそ、まさに全世界の救い主として私たちにおくられた外も内も驚くほど、聖い父なる神様に喜んで受け入れられる神様の小羊なのです。十字架という祭壇に捧げられた神様の小羊イエス様の血潮は今も信じる全ての人の罪を聖め(ヨハネ一・七)、神様の子供とする(エペソ二・一三、一六)あがないの力です。

 天国を実際に見たメアリ・K・バクスターの証しによると、天国ではたくさんの天使が役割分担しながら忙しく働いており、地上でイエス様を信じ、救われた人々のために、過去の生活の全てが記されている本を取りだして、その罪の記録の一ページ、一ページを金のバケツからすくいあげたイエス様の血潮で洗っていたといいます。そして天使が洗うと、その本のページは真っ赤になって見えなくなり、全ての記録を洗い終えた時、本のページの色が変わって、生まれた日以来、行なってきた全ての罪の記録は何一つ残らず文字通り洗い聖められていたといいます。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちを聖めます。」(Tヨハネ一・七)。ハレルヤ

 聖書はイエス様の血潮により契約します。

「さあ、来たれ。論じ合おう。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」(イザヤ一・一八)

北国で白い雪がだんだん降り積もって、やがて全ての大地を厚く真っ白におおいかぶせて、まぶしく輝かせるように私たちの心も真っ白くなれます。しかも、顕微鏡で雪の結晶を見ると多種多様な形があり、どれも驚くほど芸術的で美しいバランスのとれた形を持っています。イエス様の血潮は私たちの心をこのような美しい状態まで磨き上げて下さいます。聖なる純白な美しい心です。そして雪は必ず天から降り注がれるように、私たちの聖めも同様に人から生じるのではなく天からの恵みです。美しい雪の結晶とは、天国は美しいという手紙です。その聖い美しさの源は、私たちの過去を赦して義と認め、現在を聖と変化し・未来は栄光と変化するまで全ての罪を赦し聖めるイエス様の血潮にあります。

                    水浴した者

 ある日の夕食の間のことです。弟子たちと食事を共にされたイエス様は席から立ち上がって上着を脱がれ、手ぬぐいをとって腰にまとわれてから、たらいに水をいっぱい入れて一人一人弟子たちの足をきれいに洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められました。

 これは通常、主人が外から帰宅した時にその家で給仕するしもべがなすべき仕事です。ところがあの、主であり、師であるイエス様ご自身が、畏れ多くも弟子たち一人一人の汚れに満ちた汚い足に御手をつけるとは、弟子たちはイエス様がなぜそうなさるのか全く理解出来ず、ただただ顔を見合わせながら当惑するばかりでした。そこでペテロの順が来た時、ペテロは思いきって質問しました。

「主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか。」

 イエス様はこれに答えて

「わたしがしていることは今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 するとペテロは

「決して私の足をお洗いにならないで下さい。」

 イエス様は言われました。

「もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。」

 するとペテロは

「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」

 イエス様はこの時、大切な教えを言われました。

「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」(ヨハネ一三・六〜一〇)

 イエス様はここで弟子たちが互いに人を自分よりもまさった存在と考えて尊重し、赦し合い、仕え合うことの大切さを教訓され、加えてもう一つ大切な霊的教訓も宣言されました。水浴した者はすでに聖いということです。一度イエス様を信じて救われたクリスチャンは、すでに全身水浴した者のようにその霊魂はすでに聖い状態です。ただ、汚れた足だけ洗う必要があるというのです。中東社会は当時砂ぼこりの多い所をサンダルで歩きまわったため、その足は毎日汚れ、帰宅後玄関にある水を張ったたらいで洗う必要があったのです。足というのは日常生活での行動の基本です。それゆえ「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。」とイエス様が教訓されたこの意味は、すでに救われたクリスチャンにとって日常生活の行動上、自然と足についてしまったような汚い罪のほこり、これだけを日々洗い聖めれば良いことを教えられたのです。外から帰宅したら、まずイエス様の血潮を賛美して罪の汚れを洗い聖めることです。クリスチャンが救われて後、日常生活の中で一度罪を犯して失敗した行動があったとしても、それは行動上の足だけが汚れたのであって、聖まるために初めからもう一度水のバプテスマを受け直して一からやり直す必要はないということです。それはペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗って下さい。」とイエス様に頼み、拒まれたのと同じことです。ただ汚れた部分の罪だけを告白して悔い改め、イエス様の血潮で日毎に洗われれば、すでにその人は全身聖くなっている救われた神様の子供です。一度救いを体験したクリスチャンはすでに全身聖い人です。たとえどんなに大きな失敗をしても、転んでも倒れても聖い神様の子供であることは不変の真理です。倒れたら起きあがり、つまづいたら、もう一度立ち上がればいいように罪を犯したら悔い改めて、イエス様の血潮で汚れから聖まればそれで良いのです。イエス様がへりくだって私たちの罪の汚れを洗って下さるからです。玄関にある水の入ったたらいのように、天国では金のバケツがあって、その中のイエス様の血潮がすでに神様の子供とされた私たちの罪の汚れを永遠に至るまで洗い聖めて下さります。肉体の汚れは水で洗えば聖まります。心の罪の汚れはイエス様の血潮で洗えば完全に聖まります。イエス様の血潮を日々、繰り返し賛美しましょう。たとえばこの様にです。(聖歌四四七番)

「♪ つみのけがれを、あらいきよむるは、イエス・キリストのちしおのほかなし。イエスのちしお、ほむべきかな、われをあらい、ゆきのごとくせり ♪」アーメン。

 私たちが温泉に行くとよく体を洗い場できれいに洗ってから浴槽に入る人と、体をよく洗わないままお湯だけ部分的にかけてすぐ浴槽に入ってくる人も見かけます。どちらも温泉気分を味わって帰りますが、事前に洗い場で体を真剣にこすって洗った人は、その後の温泉効果も良く、彼らは本当に綺麗な人です。しかし、体を洗わなかった人には依然きたないあかがくっついたままで浴槽に入るため公衆の迷惑であり、彼らはただ温泉と言う雰囲気を味わって温まっただけの人です。教会でも、さまざまの人が集いますが、十字架のもとで悔い改めと感謝の祈りでイエス様の血潮をあがめる罪のあかから綺麗さっぱり聖められた人と悔い改めの祈りなく依然罪の汚れが付いたままの人もいます。いずれも教会と言う雰囲気を味わって温まって帰りますが、血潮信仰を持つか否かは教会効果ともいうべきその後の霊的成長と祝福に大きな影響を与えます。

 コロサイ1:15でイエス様について「御子は、見えない神のかたちである。」と書かれたとおりイエス様は目に見えない父なる神様の本質の完全な現われとして目に見える形で世に来られ、その肉体の命なる血潮は、人の罪を聖める父なる神様の聖さをそのまま直接受け継いだ特別な血統だったということを理解するために一つのたとえ話をしたいと思います。

 最近バイオテクノロジーの分野で特に日本が盛んに研究実践している遺伝子組替えによるクローン牛というものがあります。高品質の霜降り牛を安定的に大量供給できる日を夢見て実験されているものですが、その生産方法は通常の交尾による牛の受胎法とは根本的に異なるものです。まず優秀な血統を持つ、霜降りの高級オス牛の耳や背中のような皮膚からDNA細胞を取り出します。次にメス牛から卵細胞を取り出し、これを弱い電気刺激の力で電子顕微鏡で見ながら卵細胞の中に直接オス牛のDNA細胞を入れて受精させます。これが成功すると卵細胞は核分裂を始めます。そしてこのような状態になった卵細胞をメス牛の胎内に再び戻すと、そのまま身ごもり出産出来るのです。しかもこの場合、クローン胚は精子を使わず、卵子からも核を除いているので、これら生殖細胞から遺伝情報は引き継がず、生まれた子牛には父親のオス牛から体細胞の遺伝情報による血統だけがそのまま受け継がれ、母親のメス牛の性質は一切受け継がない、父牛と全く同じコピーのような子牛だけが誕生出来るのです。そのため父牛が優れていればそのまま血統ある父牛どうりの優れた高級牛だけが大量生産可能となるのです。日本ではこの分野で特に優れた技術を持っており、すでに世界トップレベルで出産に成功しております。現在、このこころみは動物実験に限られ、人体実験においては全世界的に禁止しておりますが、実に理論的には全く同じことが人間にも成り立つそうです。

 詩篇139章15〜18節では人間について

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠されてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。」とありますが、天国の神様の書物には文字通り個人情報のすべてが書きしるされており、地上でもこれに似た設計図のようなものが人体にはあります。それは私たちの脳内細胞は約30億もあり、その一つ一つの細胞の中にはさらに染色体があり、染色体の中には3万から4万個程の遺伝子が収まってあります。その遺伝子の実体はDNAという物質の連なりであり、これは血液の細胞から白血球を取り出して特殊な処理をすると砂よりも数多い個人的な遺伝情報を書きしるされたヒトゲノムというタイトルが付いた書物のようなDNA(デオキシリボ核酸)が出てきます。このDNA細胞という設計図を使った繁殖技術です。

 すなわち人間の受胎法にも二通りありうるのです。一つは通常どおり、結婚した男女間の結合により種を受けた女性が身ごもるものであり、この場合、生まれる子供は父親と母親の両者の性質を掛け合わせ持つことになります。

 しかし、もう一つの受胎法は男女の結合なきマリヤのような処女でも可能なものであり、それは男性のDNA細胞を皮膚から取ったものを女性から直接取り出した卵細胞に弱い電気刺激の力で直接入れてから核分裂させて、これを再び女性の胎内に戻す方法です。もし、この受胎に成功すれば、理論的には母親の性質は全く持たない、父親のDNA細胞の設計図どおりのコピーのような完全な現われとして、全く父親と同じ性質を持つ子供を出産出来るのです。

 イエス様の生誕は、たとえてみると、これに少し似た面を持っており、母親マリヤの胎内の子宮内には一つの生命が宿る過程で人間の種以外の何らかの神様よりの神秘的な直接の働きかけがあったことは確かです。

「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。」(詩七一・六、七)。

 その奇蹟とは旧約聖書中、繰り返し預言されていた救い主キリストの生誕についてのロゴスの御言葉がある日、突然、天の御使いにより、レイマの直接の父なる神様よりの御言葉となってマリヤに受胎告知された時、

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ一・二八)。

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」(ルカ一・三一)。 

 このレイマの御言葉が、父なる神様よりのDNA細胞のごとく生きた種となってマリヤに入り、その瞬間、処女マリヤの胎内に働きかけた弱い電気刺激のような働きかけが聖霊様の感動、感化だったのです。それゆえ、マリヤは処女にもかかわらず身ごもることができ、やがて時満ちて生まれ出たお方、キリストは生まれつき人間の罪の種を全く受けずに、父なる神様より直接レイマの御言葉の種だけを受けた「神の言葉」として父なる神様と同一の御性質を合わせ持ち、ヨセフの種もマリヤの性質も一切受け継ぐことなく、ただ父なる神様のコピーのように同一のイメージと栄光の完全な現われとして御父と全く一つになって世に産まれて来ることが出来た、まさに神様がそのまま人間となった救い主なのです。そのためその命であるイエス様の血潮こそ正統的に純粋な父なる神様よりの血統であり、人間の罪が全く交わらなかった聖なる命の源流であり、このような尊い血潮が十字架上注がれたのです。