― 異言


               

ストレスの多い現代社会はいよいよグローバル化の流れの中で海外を意識しながらライバルもしくは共存めがけて複雑になっています。特に先進国は日々躍進する国際市場に即した法整備が急務とされ、各種の既存規則自体が時に現状と将来の経済発展を妨げていることも多くあります。

聖書はこのような時代を預言するかのように、疲れた現代人を癒す御言葉をかねてから与えています。

「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」(イザヤ二十八章十一〜十三章」

これは異言の祈りについての教えです。異言の祈りは疲れた魂に確かな「いこい」と「休み」を与えます。異言で長時間祈りこんだ後に本来の経済活動に身を投じると平安な落ちついた心が思考の土台になるため、多くの優れた創造的アイディアと諸問題解決の英知が与えられ、もっと効率よく多くの高成果を上げることが出来ます。心に「いこい」と「休み」がないままでただ闇雲にあくせくしても事はうまくいきません。栄華を極めたソロモン王は言いました。

「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。」(伝 九章十一節)

すべての人が人生の只中で成功できる時と機会に出会います。そのときにうまくチャンスをつかめる冷静な判断力は落ちついた心から生じます。心に「いこい」と「休み」を持つ人こそ本当のビジネスチャンスを正確に見きわめてつかむことができます。昔の人が

「あわてるものはわらをつかみ、冷静なものはあわをつかむ。」と言われている通りです。

経済活動のみならず、すべて優れた芸術作品、小説、絵画等は冷静沈着な心から始まります。多くの若者たちが優れた才能を持っているのに心が落ち着かず、放蕩に傾く為、学業にいそしめず、重要な時期に将来の道を自ら閉ざしていることは悲しいことです。仕事も学業も競争も戦いもすべては、冷静で平安な「いこい」と「休み」を心に満たすことから始めなければなりません。そのためにこそ疲れ荒みがちな現代人の心をやさしく包んで癒す異言の祈りが大切なのです。異言でよく祈る人は冷静で大きなミスを回避できます。異言でよく祈る人は聖霊様の導きをよく知るため、無駄な行動をなくせます。

 

シヌアルの地でニムロデをリーダーにバベルの塔が建築されていたころ、全地は元々一つのことば、一つの話しことばで神様は人間を祝福されていました。ところが父ノアから呪いを受けたハムの子孫ニムロデとその仲間たちが集まってかつてのノアの時代のような大洪水が起きても上に逃げようと高い塔バベルを建築し始めたこと自体、全く神様の御心にかなわないことでした。なぜなら神様は、すでに

「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記九章十一節)

と仰せられたのに約束の御言葉を真っ向から信ぜず、加えて 

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」(創世記九章一節)

とも仰せられた神様の命令の御言葉にも逆らった、自分たちが全地に散らされないよう、地に満ちるのではなく一箇所に集まる反逆行為そのものでした。そのため御心を痛められた神様は彼らのことばが互いに通じないよう、一つのことばを世界中の国ことばにまで粉々に砕いて混乱させました。ことばが互いに通じなくなったバベルの住民は結局、建築を断念し強制的に地の全面に散らされ、町を建てることをやめましたが、実に、このときから私たちが今日使う世界中の各種のことばが生まれたのです。例えれば元々一枚だったことばのお皿が砕かれて、その破片の一部が日本語であり、韓国語であり、英語であるという具合です。私たちは砕かれた破片の言語を持って対話しています。そのためその不完全な原語ゆえの対話から生じる誤解や意思疎通の不十分さなど古今東西、ことばに端を発する諸問題は絶えません。個人のみならず、時にはことばのミスが国家間の戦争にまで発展するケースさえあります。わたしたちの与えられたことばが創世当初の完全に思いを伝えられる完全な一つの話しことばよりはるかに劣っているからです。では、どうしたらこのような意思伝達不十分なことばに端を発する誤解や説明不足等を解決できるでしょうか?この答えが異言の祈りなのです!

 

異言の祈りは私たちには理解の出来ないことばですが、不思議な霊的一致をもたらします。異言で長時間祈ると統一された同じ聖霊様による思いに満たされ、不思議と仲良くなり、愛情が満ち、対人関係の不和葛藤を解消してしまいます。そしてことばに表現しがたい複雑な思いさえ、祈った後に語ってみると、うまくことばがまとまって相手方にもじゅうぶん事の趣旨が伝わる不思議がともないます。夫婦間、親子間、友人間、上司と部下、恋人同士どのような関係であれ不思議と異言で祈った後は仲良く和みます。知性の言葉が通じない外国人でさえ異言で祈った後はすぐに仲良くなれます。異言の祈りは聖霊様が臨まれ霊的に一致できるからです。霊が清く一致すれば、後は精神的にもすぐに追いついて仲良くなれます。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ八章二十六節)

この賜物は対人関係の祝福だけでなく、神様への祈りとしても私たちの思いがまっすぐ天国に届く祝福にもなります。また、私たちの思いを知られた神様は速やかに必要のすべてを把握して助けの御手をのべてくださる、これが異言の祈りです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ八章二十八節)

 

教会で小さな子供を持つ母親たちが我が子の泣く声を聞くと、雑踏の中でもすぐにその泣き声を聞き分けて、走って行くという光景は何回見ても不思議です。無関心な一般の人には同じ子供たちの声に聞こえるものですが、母親だけは違います。わが子への特別な愛があるからです。

さらに驚異は「オギャー」と泣いているその声の微妙なトーンの変化をとらえて子供がおしめを取り替えて欲しいのか、お腹が空いているのか、どこか体調が悪いのか、おおよそ見分けてしまうのは愛の不思議です。

私たちが神様に捧げる異言の祈りも同様の愛の不思議があります。私たちには人の異言の祈りも自分の異言の祈りもいつも同じように単調に聞こえるものですが、私たちに深い愛と関心を寄せておられる神様は全く違います。その霊的トーンの微妙な変化をとらえ、私たちの問題が何であるか、悩み苦しみが何であるか、その必要としている祈りのリクエスト一切が何であるか等を見事に聞き分けて瞬時に完全理解してくださるのです。まさに神様の愛の御耳の不思議です。

 

聖書にはイスラエルとモアブ間の戦争で、預言者エリシャの命令に従ってみぞを掘った翌日、上流のエドム地方の川が大氾濫してイスラエル陣営に流れ込み、その地が水で満たされた状態を、翌朝早く起きたモアブの兵士たちが太陽が水の面を赤く照らしているので

「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」

と大きく勘違いして、戦略を誤り、盲目的にイスラエルの陣営に突入してひどく敗戦した記録があります。(第二列 三章)。人の目は時に錯覚します。目の異変です。

 

また、その後、同じくエリシャの時代、(第二列 七章)では

町の門の入口にいた四人のらい病人が思い切って立ち上がり、アラムの陣営に歩いていくと、そのころ 「主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。」と言って、陣営をそのまま置き去りに、いのちからがら逃げ去った」という記録もあります。

人の耳も時に錯覚します。耳の異変です。確かに目や耳の錯覚や異変は実生活上、困りますが、ここに大いに体験してよい不思議な愛の錯覚と異変があります!

 

その現象は私たちが信仰でカルバリ山の十字架をあおぐ時、クリスチャンに起きます。群集がののしり拒む中、たったお一人、愛にかり出され、愛の力で逃げることもせず、罪もないのに罪人の一人に数えられ、その過酷な死に立ち向かった勇敢な神様のひとり子イエス様の御姿が美しく輝いて見えます。血に染む貼り付け道具の十字架さえ愛おしく、美しく誇らしげに見えます。本来は恐ろしいローマ軍の血なまぐさい最悪の公死刑、罪人たちがもっとも恐れる惨忍な死刑道具なのに!

この神聖なる聖霊様の異変を受けた人々は幸いです。すでに救われた神様の子供だからです。あなたは荒削りの十字架をいかに見つめますか?もし麗しく愛おしく見えるならば幸いです。もしそうでないならば早く!不思議な愛の錯覚と異変体験をしてください。十字架のイエス様を見つめて真剣にこう祈りましょう。

「主イエスよ!異言がともなう聖霊のバプテスマ体験を与えてください。アーメン。」