メリケンサック


               

 メリケンサック

「サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。そして、サムソンは言った。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」

(士師記15:15,16)

レヒ(あご骨の意味)地域でペリシテ人を千人倒したサムソンは、勝ち誇ってダジャレを言っています。へブル語では「ろば(ハモル)のあご骨で、山と積み上げた(ハモル、ハモラタ)。」

日本流で言えば「蟻(あり)が、有難う(ありがとう)」とか「アブラハムが油(あぶら)でハム(はむ)を揚げた」というような種類の通常、誰も笑わない語呂合わせですが、しかしそれを大事な時間に真面目に語っているのは、サムソンにとってこの戦いが戦場でダジャレできるほど精神的余裕ある圧倒的な大勝利だった表れです。もっともサムソンは他に婚礼の客に難解なクイズまで出して悩ます、もともと空気を読めない非常識で冗談の多い人ですが。

「生新しいろばのあご骨」これはサムソンが見つけた死んだろばから拾い上げたものですが、普通は誰も手にしないきたなくおぞましいものです。おそらく「生新しい」ので、まだ、ろばの血と肉片が所々残ってついていて、ちょうど焼肉用の生肉のスペアリブ(骨付きカルビー)に歯が並んでついたような薄気味悪い骨だったでしょう。もし焼肉のスペアリブにずらっと歯が並んでついたものがお皿に出されたら、あなたは食べられますか?おそらく食欲は失せてこう言うでしょう。「気持ち悪い。これ誰のスペアリブ?」しかし、この不気味な骨を戦闘道具に用いて、主の聖霊が激しく下った結果、サムソンは敵のペリシテ人を千人も倒して圧倒的勝利を得たのです。

私ははじめて聖書を読んだとき、サムソンはろばのあご骨の端っこをそのまま普通に手に持って棒を振りかざすように自在に振り回したと思いましたが、よく考えて祈るとそうではなく、こぶしにそってぴったり装着するプロテクター方式の使用法だったと思います。ろばの下あごの前歯が握りこぶしの前面中央に位置して指をガードし、ろばの下あごの両サイドの奥歯の部分が握りこぶしの左右を包む形でかぶせる握り方です。ちょうどこれは不良が喧嘩で鉄パイプとセットで使う鋼鉄に指を入れて手にはめてパンチの威力を増す凶器メリケンサック(ナックル)のようです。ろばのあご骨は元祖、天然メリケンサックだったのです。

メリケンサックはとても攻撃力が強く、指を入れて握り、こぶし前面を鋼鉄でガードして覆うので、素人でも空手の瓦割りや板割りのような芸当をやってのけることが出来、稽古を積んだ空手家などが使用すればとんでもない凶器へ変身すると言われます。大きなサムソンの握りこぶしをぴったり覆うサイズの天然メリケンサックとなったろばのあご骨も鋼鉄のように相当堅固で、プラス、そこにはオプションでメリケンサックのトゲトゲ突起物代わりのアホなろばの歯が無造作に並んでつき、プラス主の聖霊が激しく下った超常パワー、まさに向かうところ敵なしサムソンです。この強烈なろばのあご骨に包まれて強化された怪力サムソンのこぶしで打たれたのだから千人のペリシテ人もひとたまりもありません。

聖書は愛の書ですが、実は、ここだけの話ですが、別な角度から研究するといろいろな戦争勝利の秘訣も書かれています。ここではろばのあご骨がメリケンサックに代用でき、装着時の破壊力は、こぶしと連動して働く密着性からパワーの分散を極力省いて強大になることが分かりましたが、他に巨人ゴリヤテと少年ダビデの戦いでは、大きな剣と盾で武装した昔の兵士のような肉弾戦スタイルのゴリヤテよりダビデが強かったのは、投石器を使って額の中央の急所を狙ったからです。弁慶の泣き所のような相手の急所だけを攻撃目標に戦えば体型のハンディも克服して勝てます。さらに肉弾戦をするより頭脳戦のほうが上等です。ダビデは飛び道具を使いました。ゴリヤテは古い人です。巨大な剣より飛び道具が上です。真面目に剣を磨いたり筋肉を鍛えるより、頭を使った文明の利器、投石器、拳銃、ライフル、機関銃、ミサイル、衛星からのレーザービームが格段上です。戦いは筋肉より知力の時代です。離れた安全確保の位置から飛び道具を使ったほうが圧勝です。第二次大戦時、日本軍はパールハーバー停泊の米国戦艦を上空から飛行機で奇襲攻撃して多数、海中に撃沈しましたが、そのことが後に本格的な戦争に突入した際、アメリカ軍にとって重大は戦略転換の教訓を残しました。船より飛行機、飛び道具の飛行機で上空からの攻撃が圧勝であると。その後も日本軍は勝利に酔いしれて巨大な武蔵や大和のような戦艦造りに徹しましたが、時代はすでに空中戦でした。戦闘飛行機を大量生産し始めたアメリカ戦略の前では、日本軍はなすすべもなかったのです。戦いは頭脳戦の時代です。

サムソンはかしこく道具を正しく使って圧勝しました。

 

実は私たちの手にも霊の戦いでこのような向かうところ敵なしの圧倒的な大勝利者となれる頭脳戦型の戦闘道具が与えられています。それこそが、レヒの場所(訳すと、「あご骨」の場所)によく似た名称のゴルゴダの場所(訳すと、「どくろ」の場所){どちらも骨関係のネーミング}で高く上げられたイエス・キリストの十字架です!

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(コリント第一1:18)

荒野では時々、落ちているありきたりの価値なきろばのあご骨同様、見栄えもなき十字架こそが実は神様の英知集約型の偉大な最新鋭の武器なのです。

骨とは生物の死を無言に表現しますが、十字架もそうです。スペアリブに歯がたくさん生えたような「生新しいろばのあご骨」同様、十字架も死刑囚の血と肉が残る本来、誰も手にしない大変不気味で凄惨でおぞましい処刑道具です。しかし、これが主の聖霊が私たちに激しく下るとき、千人のペリシテ人のような無数の悪霊どもを倒す、唯一主力の戦闘道具、霊的大量破壊兵器に変わります。元来、恐怖の十字架がネックレス等の美しい装飾品に変わるような奇蹟です。無価値なろばのあご骨のような荒削りの雑木だった十字架が巨大な戦力となって私たちを敵から救います。サムソン同様、戦う我らに聖霊様が激しく臨まれるとき、十字架の言葉が霊的世界で圧倒的な大勝利を与える戦いの道具になるのです。ハレルヤ!

まだまだ荒削りでうまく語れないかもしれない、しかし、その伝えようとする愛と真実のなかで宣教のことばの愚かさを通して、神様は信じるものを確実に救われます。勇気を持って黙ることなく語り続けて下さい。あなたの周囲には救われるべき民が大勢います。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(コリント第一1:23,24)

エリシャの時代、サマリヤにひどいききんがあり、その上、敵が包囲していたので、食料価格が高騰して「ろばの頭一つが銀八十シェケル」(列王記第二6:25)で売られました。通常、捨てられる価値のないろばの頭さえ貴重な食料となり、一つで120−130万円と高値で取引されたのです。このような異変が聖霊様によって語るあなたの十字架のことばにも起きるのです。十字架を誇り、十字架を重視して、イエス様の死と復活を語るとき、2000年前の十字架の事件が現代の私たちすべての人々に関係する救いの御言葉となり、イエス様の御名で悪霊どもを追い出し、病を癒し、永遠の命を与える新生の奇蹟が起きるのです。十字架のことばを語るとき、まるでろばの頭のようにぽっかり空洞で内容なくむなしかった私の軽い言葉が、重い永遠の救いをもたらす価値ある神様の生きたメッセージに変わるのです。

バラム預言者の気違いざたをはばんで、罪をとがめたのは、元来ものを言うことのないろばが神様の奇蹟で、ものを言ったときでした。(民数記22:28−30)

あなたが十字架のことばを語れば、乱れた社会の気違いざたをはばんで、迷える罪人をとがめて救えます。武器はただ十字架のことばだけで十分です。

ただし、戦いの道具はサムソン同様、血と肉の乾ききった古いろばのあご骨を用いてはいけません。生新しいもの限定です。なぜなら十字架はイエス様の生新しく赤い生きた血潮と裂かれた肉体が現れたとき、これが神様の御前、確かな契約の証拠となって聖霊様が働かれ、敵を倒す唯一の絶対戦力となるからです。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」(ヨハネの手紙第一5:5−8)

聖霊様と教会を洗う水なる御言葉とイエス様の血潮の三つが一つとなって働くとき、偉大な御救いをこの国にもたらします。祈って聖霊様に満たされ、聖書を読んで清まり、イエス様の血潮を賛美して信仰に立つということです。天然メリケンサックであるろばのあご骨はこぶしを強固にする攻撃効果だけでなく、こぶしをガードする防御効果もあります。十字架のことばも人々を救う攻撃効果と自らを守る防御効果もあります。

サムソンは偉大な勝利をイスラエルにもたらした勇敢な士師でしたが、その直後、ひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言いました。

そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。

(士師記15:18)

サムソンにとって大いなる救いの体験以降、小さな困難を耐えがたく思えた失態でしたが、過去に受けた偉大な御救いを忘れて現状のわずかな問題で恐れ悩んではいけません。私たちの今の困難はサムソンが感じた渇き同様、一時的でわずかなもの。すでにイエス様の十字架で与えられた永遠の命の御救いと世に対する圧倒的な勝利を覚えて、現状の困難を見直せば問題も悩みもはなはだ小さくなります。

すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。」(士師記15:19)

十字架以降は聖霊の泉がわきあがる新時代ですから、問題が起きたら、十字架のイエス様の御許にひれ伏し祈りましょう。祈りが奇蹟を生み出し、すべての悪霊どもを成敗して追放できます。ペリシテ人のような諸悪の根源なる悪霊どもが縛られず自由に活動しているので、今の時代、社会的な不正と問題が増大しています。

10年位前のことでしたが、私の住む街が一冬に連続放火70件以上という不審火事件がありました。

当時、連日、夜毎に消防車のサイレンを聞いていましたが、その火の粉がわが身に降りかかるまでは、真剣な祈りを捧げていませんでした。

不審火が通算70件くらいの頃、次に放火されたのが私たちの教会が入居している雑居ビルでした。開拓当時3階に教会がありましたが、6階のテナントが廊下に置いていた化粧品入りの大きなダンボール箱に放火されました。その日が土曜日の深夜で翌日の主日礼拝の日は早朝から驚かされました。ビルの入り口には黄色い「立ち入り禁止 KEEP OUT」と交互に書かれた細長いひもが幾重にも張られ、消防車が待機していて人々が集まっていました。

特別に関係者として建物内に入れてもらいましたが、6階全室で放水したため、階下は階段も廊下も室内までも水浸し状態でした。

礼拝堂は後ろ半分が浸水して、鎮火直後の独特な嫌な焦げ臭さが残っていました。

その後は教会員の立ち入りは許可されましたが、漏電テェックができていないため電気のない薄暗さの中、集まった教会員にマイクもなく叫んでメッセージしました。

そしてその日の夜、私は今回の放火事件に無関心だったことを悔い改めて真剣に祈りました。

「主よ。礼拝を妨げたこの悪い放火魔を捕まえてください。イエス・キリストの御名でこの立川の地域に働く悪魔を縛る! 出て行け!」

それから十字架の御もとで感謝の祈りを捧げて神様に信頼しました。

すると翌日、ニュースに連続放火魔逮捕のよき知らせが飛び込みました。

この放火魔は若い男でいつも放火の手口は同じく丸めたティッシュペーパーに灯油を染み込ませたものに火をつけてから空き家を中心に投げ入れ、すぐに立ち去るというものでした。

計算すると私が教会でこの放火魔に対して真剣に祈った数時間後に警戒中の張り込み警察官に現行犯逮捕されていました。後日、週刊誌にこの事件が大々的に報道されていましたが、その記事には犯人の若い男が「逮捕されてほっとした。」と述べていました。自分でも放火がやめられなくなって何かに駆り出されるように犯行を常習的に繰り返していたそうですが、過去70件以上もの放火に対して消防と警察と高松町内会で厳戒態勢の張り込みをしていたにも関わらず、今までなかなか捕まらなかった狡猾な知能犯が教会でのただ一度の真剣な徹夜の祈りの数時間後に捕まっている。この歴然とした事実を前に私は祈りを通じて働かれる聖霊様の力強さを再認識したと同時に、自分とは直接関わりなき事柄への愛のとりなし祈りの欠乏を深く反省させられました。というのはこの一連の放火事件で後半期に一人の人が亡くなられていたからです。もし、私がもっと早期に真剣なとりなし祈りを捧げていれば、あるいはここまで被害が拡大せず、その気の毒な人は死なずに住んだかも知れないと考えさせられました。私たちは時代の見張り人、霊的には祈りの大祭司の勤めがあります。使命感を持って祈るとき、霊の世界では確かに不思議な目には見えない神様の力が働いて奇蹟を起こし、問題解決が早期にできます。

奇蹟のイエス様を信じて共にお祈りしましょう。あなたのとりなし祈りは決して無駄ではありません。神様が全てを知られ、祈りを聞いておられます。失望せず、忍耐の限りを尽くして信仰で祈りましょう。この世にはおおよそ3つの次元の力があります。一つは筋肉の力を使って稼ぐブルーカラー労働者の力です。もう一つは知力の力を使って稼ぐホワイトカラー労働者の力です。一般的には前者より後者が社会的な立場が上で収入もよいと言われます。しかし、我らクリスチャンにはもう一つのこの世が知らない、実践的な力が特別に与えられています。

それこそが信仰で生きる祈りの力です。実生活で私たちは全ての人と同様に努力して生活しますが、自力だけで生きても神様からの賞賛はなく、むしろ神様によりすがって信仰で日々、祈りながら生きる人を神様は喜ばれ、捜しておられます。イエス様の十字架のことばを握って悔い改めの祈りと信仰で天国に入ることを望んでおられます。霊の戦いで祈りの力をもっと実生活に適用してください。あなたはそれが出来る人です。すでに大きな力が聖霊様によって与えられています。内なる聖霊様の奇蹟の力を祈りで解き放ってください。神様は御自身に背を向けて自力で生きる人よりも、へりくだって弱さを認め、聖霊様に頼って日々、生きる人を重んじられ喜ばれます。強すぎてもいけません。子供のように素直で単純に父なる神様を信じることが人間にとって全てです。十字架を圧倒的勝利の武器として誇り、悪霊どもの軍隊組織を徹底破壊して追い出しましょう。